明智光秀の死に様
ーー何処で歯車が狂ったのか。
明智光秀は呻吟していた。
天正十年六月八日のことである。
昨日までは、思惑どおりに事が運んでいた。
当然である。乾坤一擲、己のすべてを懸けて起こした謀反だ。練りに練った計略は、綻びの一つもあろう筈がなかった。
六月一日夜、居城・坂本城を発すると、二日未明、手薄な本能寺を急襲し、主君織田信長を自刃せしめた。
そのまま二条御所に籠もる織田信忠(信長の嫡子)を襲い、これも討った。
四日には近江のほぼ全域を制圧し、翌五日には安土城に入城。
そして、昨日七日には、勅使・吉田兼見卿を安土城に迎え、朝廷からの信任を得た。
織田家中の重臣たちが各地に散っている隙を狙い、わずか六日でここまで成し遂げたのだ。
もはや手向かうことのできる者はいない。織田家中の者たちも、必ずこちらに靡いてくる。
何も抜かりはない。すべてがうまくいっているーー筈だった。
なのに何故だ?
最大の理解者だった筈の細川藤孝と、その子忠興が、信長への弔意を示すためと称し、揃って髻を払ったという。
さらに忠興が、光秀の三女である正室お玉を幽閉したなどという、馬鹿げた噂まで立っている。
細川父子だけではない。義弟の筒井順慶までが、怪しげな態度を取り始めている。
そして、ただでさえ苛立ちの募るこの状況下に追い打ちをかけるが如き、先ほどの知らせ。
ーー備中高松の毛利勢を攻め倦ねていたはずの羽柴筑前守秀吉が、毛利と和議を結び、早々に軍を返して摂津まで迫っているというのだ。
耳を疑った。
何故、羽柴軍がかくも早く帰って来られる?
何故、細川父子は与同しない?
何故、順慶は迷っている?
何故?何故?何故?
疑惑が渦を巻き、光秀を懊悩の淵へと突き落とす。
しかし、いまの彼には、徒に頭を悩ます暇すら許されない。
早々に次の一手を打たねばならぬ。もはや後戻りは許されないのだ。
「誰かある!支度をせい!」
光秀は、安土城を留将に任せ、自身は一族の待つ坂本城に向かった。羽柴秀吉との決戦に備えるために。
光秀は、八日夜を居城・坂本城で過ごした。
わずか七日前に本能寺を目指してこの城を出た。以来、怒濤の如くに時は過ぎ、彼を取り巻く状況は一変していた。
しかし、光秀には感慨に耽る暇もなかった。翌九日の朝には、摂津に近い下鳥羽へ布陣すべく、再び坂本城を後にした。
途上、上洛した光秀は、吉田兼見邸を訪問し、禁中、京都五山及び大徳寺に銀子計千二百枚を献上する旨申し出た。
謀反を大義たらしめるためには、朝廷の権威という後ろ盾が何より重要である。錦の御旗を手放すわけにはいかないのだ。
また、同日、光秀は、細川藤孝宛の書状を認め、味方につくよう最後の説得を試みている。
光秀は、苦悩も逡巡もすべて心中深く押し込めて、只々、自ら為し得るすべてを為した。
しかし、彼の奮闘とは裏腹に、状況は益々悪化の一途を辿っていた。
細川与一郎忠興は、書状を一気に読み終えると、顔を上げ、父・細川藤孝と眼を合わせた。
明智光秀から藤孝に宛てられた書状であった。
信長に弔意を示した細川父子を責めながらも、自らに味方するよう促し、見返りとしての恩賞にも言及していた。さらには、近国の基盤を固めた暁には、自らは隠居し、政権を忠興と十五郎(光秀の嫡男・光慶)とに引き渡す、とまで書かれていた。
「与一郎、如何致す?」
藤孝は、忠興の眼を真っ直ぐに見据えた。我が子の決意を敢えて試すような視線であった。
「父上・・・。如何も何も、もう決めたことです。後戻りは致しません」
我が子の決然たる返答を耳にして、藤孝自身もいよいよ臍を固めた。
「よいのだな」
忠興が小さく点頭すると、藤孝は言い放った。
「では、我等父子は、明智日向守殿を見捨て申す」
細川父子は、四日後の山崎の戦いには出陣していない。明智、羽柴いずれにも与せず、中立を決め込んだのである。
一説によると、光秀から事前に謀反の計画を打ち明けられた細川父子が、これを羽柴秀吉に漏らしたのだともいわれる。
確かに、秀吉が光秀の謀反を事前に知り、備中から密かに軍を返す準備をしていたのであれば、あの「中国大返し」の、嘘のような迅速さも説明がつく。
しかし、それが真実だとすると、秀吉は、光秀の計画を敢えて主君信長に告げず、己の天下取りに利用したことになる。空恐ろしい話である。
無論、これは一つの見解に過ぎない。
しかし、後に細川家が、豊臣政権下で破格の厚遇を受けたことは事実である。
翌十日、光秀は、大和国・郡山にほど近い洞ヶ峠に布陣した。大和を領する筒井順慶に出陣を促すための、いわば脅迫である。
光秀が謀反を起こした当初、順慶は、光秀に協力する態度を示していた。六月四日には兵を従えて大和を発し、五日には光秀の軍とともに近江を攻めている。
ところが、その後、郡山城に戻ると、その態度が徐々に変わり始めた。
光秀が順慶のもとに遣わしていた使者を、城内に招きもせず、興福寺に足止めさせて放置していた。
さらに、九日には、城内に兵糧を運び込み始めた。恰も、籠城戦でも始めるような態度である。
ーー誰と戦う気だ。何を迷っておる。
秀吉の軍が間近に迫っている。一刻も早く下鳥羽へ戻り、迎撃の陣容を整えねばならない。
しかしその一方で、光秀には、何としても順慶の加勢が必要だった。
にも拘わらず、順慶は、一向にこちらに応ずる気配を見せない。
光秀の焦りは、募る一方であった。
一晩待った。
しかし、やはり郡山城は沈黙したままであった。
ーーもはや是非もなし。
十一日、光秀は、洞ヶ峠から軍を退き、下鳥羽へ移った。
諸史料の示す処によると、同日、筒井順慶は、羽柴秀吉に対し、二心なく忠誠を誓う旨の誓紙を、使者を通じて差し入れたという。
翌十二日、遂に羽柴方の先鋒が山崎に入り、天王山を占拠した。
勝龍寺の近辺では、両軍の一部が鉄砲を撃ち合う小競り合いがあった。
もはや両軍の衝突は、必至であった。
明けて十三日。この日は、朝から篠突くような雨が降っていた。旧暦の六月、梅雨は既に過ぎているから、やや時機に遅れた雨といえる。
光秀は、雨に打たれながら天を見上げていた。
ーー羽柴の本隊が来る前に、先鋒の摂津衆を討つべきか。
羽柴本隊が着陣すれば、彼我の兵数差は圧倒的となる。おそらくは、倍近くの敵を迎え撃つことになろう。
戦の本道からすれば、本隊が来る前に摂津衆を討っておくべきである。
ーーしかし。
光秀は自問する。
ーー儂は、焦りすぎていないか。死に急いでいるのではないか。
この数日、あらゆる状況が、光秀に不利な方へ働いている。
その中で生まれた焦りが、胸の内で次第に大きくなり、冷静な判断を失わせていく。
一刻も早く、事を決したい。早く、楽になりたい。
光秀は、いつの間にか、焦りに任せて動いていた自身を発見した。頬を打つ雨が、それを教えてくれた。
冷静さを取り戻すと、この数日のことが思いやられた。
今になって思えば、細川父子や筒井順慶のもとに、自ら赴いて説得すべきではなかったか。
彼等だけではない。現に対峙している摂津衆にしても、味方に引き入れる手立てがあったのではないか。
いや、今更考えても、詮無いことである。過去の失策に思いを巡らすこと自体、未だ焦りのなかから抜け出していない証拠ではないか。
「よし」
光秀は臍を固めた。
「進軍せよ。摂津衆を討つ!」
諸史料を俯瞰すると、戦闘が始まったのは申の刻(午後四時)としているものが多く、これが定説となっている。
しかし、中には、正午頃に始まったとするものもある。
また、山崎近くの「天王山」という山が、戦略上重要で、これを先に押さえたが故に、羽柴方は大勝をおさめたのだ、ということが巷間よく云われている。しかし、これは俗説に過ぎず、天王山の攻防に触れた良質の史料は、ほとんど見当たらない。
ことほど左様に、山崎の戦いは、史上、その実体が明らかでない合戦のひとつである。
しかし、ほとんどの史料が一致し、明らかになっていることがある。
明智軍は緒戦から大敗を喫し、かなり早い段階で勝龍寺城に立て籠もった、という事実である。
しかも、籠城戦も長くは保たず、その日のうちに、光秀は、僅かな手勢とともに勝龍寺城を脱出している。
やはり、光秀は死に急いでいたのである。
星も見えない曇天の下、光秀は坂本城に向かっていた。
ーー坂本に帰れば、軍を立て直すことができる。まだだ。まだ、負けを認めるわけにはいかぬ。
供の数、僅かに五人。馬に乗るのは光秀だけで、供の者たちは徒歩で前後を固めていた。
昼間の雨で地面は泥濘るみ、足取りは次第に重くなっていく。
「此処はどの辺りだ?」
轡をとる溝尾庄兵衛尉に尋ねる。
暗夜のうえに、先程来、竹藪を貫く間道を進んでおり、一間先の様子も分からないほど暗かった。
「まもなく山科に出る辺りでございましょう」
「坂本は遠いな」
光秀は思わず嘆息を漏らした。
その瞬間、右の脇腹に異変を感じた。
何か棒状の物体が、表皮を突き抜けて腹中に刺さり、即座に去ってゆく感覚。
鋭い痛みが、一瞬後から襲ってきた。
同時に、四方から叫び声があがった。
「敵襲でござる!お退きくだされい!」
後方の家臣から声がかかり、溝尾庄兵衛が轡を掴んだまま走り出した。しかし、疲弊し切った馬の脚は重く、思うように先へ進まない。馬よりも庄兵衛のほうが速いくらいだった。
必死で馬を牽く庄兵衛の背を見ながら、馬上に揺られる光秀の意識は遠のきはじめていた。
どれほど進んだか分からないが、ともかく窮地は脱したようだ、と溝尾庄兵衛は判断した。
他の家臣は竹藪で足止めされ、一人もついてこない。或いは全員、討ち果たされたか。
暗闇で襲われたため彼等には知る由もなかったが、後世伝わる処によると、竹藪で光秀主従を襲ったのは、敵の追っ手ではなく、落ち武者狩りの土民であったという。
足を止め、振り返って馬上の光秀に目を向ける。
光秀は、馬の首に前のめりに凭れていた。両腕は手綱を放して力なく垂れ、その躰は今にも馬上から落ちそうだった。
「殿!」
庄兵衛は、このときはじめて、光秀の異変に気付いたのだ。
光秀の躰を引き摺り下ろして肩を抱いた。
脇腹に円い大きな傷口が開き、多量の血が流れ出ていた。
竹藪で光秀を刺したのは、急拵えの竹槍であった。円い傷口は、竹槍が如何に深く突き刺さったかを物語っていた。
「殿!殿!」
薄く開いた光秀の眼が庄兵衛の方に向いた。辛うじて意識は残っているようだ。
「しょ、庄兵衛・・・」
「殿!お気を確かに!」
「も、もはや・・・これまで。か、介錯・・・せい」
「何をか云わっしゃる!お気を確かにお持ちくだされい!」
「よ、よいのじゃ。く、首を・・・、儂の、首を、奪われては・・・な、ならぬぞ」
敵前に首級を晒してはならぬ。
自らの死を悟り、遂に敗北を認めた光秀の、最後の矜持であった。
「殿!」
光秀は、残る力を振り絞って半身を起こし、腰から脇差を抜く。
光秀の覚悟に気圧された庄兵衛は、やむを得ず立ち上がり、大刀を抜いた。
歯を食い縛り、溢れ出る涙を堪えると、両足を大股に広げ、刀身を頭上に振り上げる。
雲間から僅かに射した月光を吸い、刀身が鈍く光る。
その光が弧を描いて、光秀の項を襲った。
同時に、光秀が自らの腹に脇差を突き立てた。
天正十年六月十三日、明智日向守光秀、伏見小栗栖にて死す。享年は五十五とも、六十七とも伝わる。
溝尾庄兵衛は、光秀の首を鞍覆に包んで土中に埋めたとも、持ち去ったともいわれる。
だが、如何なる経緯によるか、結果的には、「明智光秀の首」なるものが、羽柴方の手に渡り、首実検が行われている。
しかし、夏の暑さに腐敗が進み、その面体が真実、明智光秀のものであるか、明確には判じ難かったという。
以下、余談であるが。
彼が謀反を起こした理由については、後世様々な説が唱えられている。
曰く、生真面目な光秀は、激情家の主君信長とは普段から反りが合わず、公衆の面前で罵倒されたことが機となって、募らせていた怨恨が暴発したためであると。
或いは曰く、元から天下人への野望を隠し抱いていた光秀が、本能寺の警護の手薄なことを知り、好機到来とばかりに打って出たに過ぎぬと。
或いは曰く、帝の譲位の時機にまで口を出し、専横が目立ちはじめた信長に危機感を募らせた朝廷が、尊皇家の光秀を唆して信長を討たせたものであると。
然るに、真実は彼自身とともに葬り去られ、もはや誰人も知る術をもたない。
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