よく云えば沈毅重厚、悪く云えば優柔不断。 それが、丹羽越前守長秀という男であった。 兎に角、事に当たって、まったく動じない。むしろその慎重さが、他の武将にない彼の個性となって、彼を織田信長の重臣たらしめていたとも云える。 その丹羽長秀が下した、人生で殆ど唯一と云ってよい大胆な決断ーー。 それは、羽柴秀吉の天下人としての資質を見抜き、自ら進んで秀吉の風下に付いたことであろう。 もとは木下藤吉郎と名乗っていた秀吉が、「羽柴」と姓を改めたのは、織田家の家臣でも特
ーー何処で歯車が狂ったのか。 明智光秀は呻吟していた。 天正十年六月八日のことである。 昨日までは、思惑どおりに事が運んでいた。 当然である。乾坤一擲、己のすべてを懸けて起こした謀反だ。練りに練った計略は、綻びの一つもあろう筈がなかった。 六月一日夜、居城・坂本城を発すると、二日未明、手薄な本能寺を急襲し、主君織田信長を自刃せしめた。 そのまま二条御所に籠もる織田信忠(信長の嫡子)を襲い、これも討った。 四日には近江のほぼ全域を制圧し、翌五日には安
慶長五年七月二日、佐和山城ーー。 石田治部少輔三成は、手にしていた扇をぴしゃりと閉じると、意を決したように、目前の白頭巾の男に語りかけた。 「慶松よ、実は喃、お主と内々に談合したき儀があるのじゃが」 大谷刑部少輔吉継、幼名を慶松という。 三成とはいまだ幼名で呼び合う刎頸の友であり、豊臣政権をともに支えてきた重臣同士でもある。 然るに、三成が秀吉没後の政権を託された五奉行の筆頭に据えられたのに対し、吉継は五奉行の中には数えられていない。何故かならば、彼は重い病
柴田修理亮勝家は、前田又左衛門利家の前へ足早に進み出ると、どかりと腰を下ろした。そして、畳に両拳を突き、深々と頭を下げた。 「年来の骨折り、誠に重畳。この修理亮、衷心より深く感謝致す」 室中に響く大声で述べると、その儘暫く動かなかった。 「お、親父殿、面を上げてくだされい」 慌てて近付いた利家がその手を取ると、漸く頭を上げた。 その表情は晴れやかだった。 利家には意外であった。武辺一徹、狷介不羈の親父殿が、勝手に戦場から離脱した自分を責めることすらせず、逆
「爰に佐殿(=源頼朝)仰けるは、敵は大勢也、而も大場、曽我案内者にて、山蹈して相尋ぬべし、されば大勢悪かりなん、散々に忍び給へ、世にあらば互に尋ねたづぬべしと宣へば、兵者我等既に日本国を敵に受たり、遁べき身に非ず、兎にも角にも一所にこそと各返事申しければ、兵衛佐重て宣ひけるは、軍の習、或は敵を落し或は敵に落さるゝ是定れる事也。一度軍を敵に敗れ、永く命を失ふ道やはあるべき、爰に集り居て、敵にあなづられて命を失はん事、愚なるに非や。昔范蠡会稽之恥■(=にんべんに旬)はず、畢く勾践