石田三成の死に様
「爰に佐殿(=源頼朝)仰けるは、敵は大勢也、而も大場、曽我案内者にて、山蹈して相尋ぬべし、されば大勢悪かりなん、散々に忍び給へ、世にあらば互に尋ねたづぬべしと宣へば、兵者我等既に日本国を敵に受たり、遁べき身に非ず、兎にも角にも一所にこそと各返事申しければ、兵衛佐重て宣ひけるは、軍の習、或は敵を落し或は敵に落さるゝ是定れる事也。一度軍を敵に敗れ、永く命を失ふ道やはあるべき、爰に集り居て、敵にあなづられて命を失はん事、愚なるに非や。昔范蠡会稽之恥■(=にんべんに旬)はず、畢く勾践之讎を復す、曹沫三敗之辱に死なず、已に魯国之羞を報ず、此を遁れ出て、大事を成立てたらんこそ兵法には叶ふべけれ。いかにも多勢にては遁得べからず、各心に任て落べし、頼朝山を出て、安房上総へ越ぬと聞えば、其時急尋来給ふべしと、言を尽て宣へば、道理遁れ難して、各思々にぞ落行ける。」(源平盛衰記 巻第二十一)
源平盛衰記は、石田治部少輔三成の座右の書である。
五奉行の筆頭として豊臣政権の政務を取り仕切ってきた彼は、とかく能吏としての側面ばかりが世上に知られるところであった。
しかし、若年より秀吉に近仕した彼は、その実、関東征伐、朝鮮出兵など、幾多の戦場に身を置いてきた。
目立った武功を挙げた訳ではないが、少なくとも彼自身は、自らを武士と信じていた。
その三成が、多忙を極める政務の合間に頁を繰り、武士としての心得を学んできたのが、この一書であった。
いま、三成は、源平盛衰記の一節を諳んじつつ、石橋山の戦いに敗れて落ち延びた源頼朝公の境遇に、自身のそれを重ね合わせていた。
(軍の習、或は敵を落し或は敵に落さるゝ是定れる事也。一度軍を敵に敗れ、永く命を失ふ道やはあるべき)
(此を遁れ出て、大事を成立てたらんこそ兵法には叶ふべけれ)
関ヶ原の戦場から落ち延びて三日、捲土重来を心中深く期す三成であったが、しかしいま、その身辺には従臣一人とてなく、その躰は疲れ果てていた。
戦場から逃れて最初に隠れた伊吹山で、「頭数が多ければ人目につく」と、付き従ってきた家臣たちを説得し、大坂での再会を約して別れた。それでも離れず供をした近臣が三名いたが、その者たちも大谷山で説き伏せて去らしめた。
石橋山で家臣と別れた頼朝公と同じである。
以来、ただ独り人目を忍びつつ、重い躰を引き摺って山中を歩き通した。
しかし、もはや疲労と空腹が限界に達しつつある。
力尽きて路傍に倒れるが早いか、目指す旧領に辿り着くが早いか。
朦朧たる意識の中、三成はただ源平盛衰記を諳んじながら、一歩、また一歩と足を進めた。
「お上人さまぁ、お上人さまぁ」
早朝、庫裡で身支度をしていた三珠院の住持・善説のもとに、入門から日の浅い小僧が箒を抱えて走り込んできた。
「何じゃ、朝から騒々しい」
「も、門前に人が、人が倒れております」
息を切らしながら、小僧が訴えた。
「行き倒れなぞ、珍しくもなかろう。儂に断らずとも、差し当たり本堂に運びやればよかろうに」
「そ、それが・・・」
「どうした?」
「お武家さまなのです。それもかなり身分高き方とお見受けいたします。もしやと思いまして・・・」
善説が門前に駆け付けると、既に寺僧たちが行き倒れ人を囲んでいた。
銘々に思案顔で腕組みをし、如何に処置すべきか迷っている様子であった。
「あ、お上人さま」
彼等が善説に気付いて身を避けると、善説は行き倒れ人に近付き、その顔を覗き込んだ。
果たしてそれは、石田治部少輔三成その人である。
寺僧たちが処置に迷うのも、宜なる哉。
ここ三珠院は、三成の旧領に属す古橋村の法華宗寺院。住持の善説はかねてより三成と親交があった。常であれば、三成の来訪を歓待すべきである。
しかし、数日前の関ヶ原合戦の勝敗は、この山中の寺院にも既に伝わっている。それどころか、東軍による三成探索の手は、古橋村一帯にも既に及んでいたのである。
下手に匿い、東軍の知る処となれば、如何なる危害が我が身に及ぶか、知れたものではない。それでも旧誼を重んじて、彼を匿うべきか。
寺僧たちは、しばし絶句する師僧を注視し、その決断を待った。
善説は、おもむろに口を開いた。
「は、運べ!本堂へ運べ!い、いや、本堂では人目につく。庫裡へ運べ!早く、さあ早く!」
善説上人は、義を重んじる人であった。
とはいえ、狭い山村のことである。「石田の殿さまが寺に隠れているらしい」との噂は、その日のうちに村人の間に広まっていた。
夕刻、漸く目を覚ました三成にも、世話をする寺の者たちの浮き足立った様が、あからさまに見て取れた。
「お、お上人を、呼んでたもれ」
食事を運んできた僧に三成が頼むと、間を置かず善説が現れた。
「お上人」
半身を起こそうとする三成を、善説は慌てて制止した。
「いけませぬ治部さま、無理は禁物ですぞ」
制されて再び床に横たわった三成は、振り絞るような声で云った。
「お、お上人、世話に・・・なり申した。こ、これより、お、大坂に、向かい・・・まする。こ、この三成、御恩は生涯、わ、わ、忘れま、せぬぞ」
「何をか云わっしゃる。せめてお躰の癒えるまで、この寺にいらっしゃれ」
懇願する善説に、三成は答えた。
「お、追っ手、の迫るは、じ、時間の、問題。こ、これ以上、め、い、わくは、か・・・かけられ、ませぬ」
「し、しかし」
図星である。
これ以上三成を匿えば、三珠院に危害が及ぶのは明白。善説には、住持として寺を守る責任がある。善説上人の義心がどれほど厚くとも、如何ともし難い現実がそこに迫っているのだ。
善説が押し黙っていると、後方で障子が開き、若い寺僧が部屋に入ってきた。
「お上人さま」
寺僧は善説の袖を少しく引っ張り、僅かながら三成から引き離すと、声を顰めて耳打ちした。
「石田さまの身柄を譲り受けたいと」
「なっ」
ーーもう東軍の捕吏が来たというのか。よもやこれほど早いとは。
「いえ、あの、追っ手ではなく」
善説の驚いた横顔から、彼の誤解を察した寺僧は、慌てて打ち消した。
「与次郎が来ておるのです」
古橋村の老農夫・与次郎太夫が、いつ頃、いかなる事情で三成の知己を得たか、諸文献にも詳らかでない。
一農民が石田三成ほどの高位の武士と面識があったというのは、当時ではかなり稀なことではあったろうから、或いは与次郎の方が一方的に昔日の出逢いを覚えていただけで、三成の方は忘れていたかも知れない。
ともかく、与次郎太夫は、かつて三成に情けをかけられ、一方ならぬ恩義を感じていた、ということだけが伝わっている。
その与次郎太夫が、「大恩に報いるは今」とばかりに、自ら三珠院に願い出て、三成の身柄を引き受けたのであった。
彼は、自身の家に近い山中の岩窟に三成を匿った。
無論、三成としては一刻も早く大坂に駆け付けたかったが、躰の衰えがそれを許さなかった。
いくら休んでも、躰は癒えるどころか、益々衰弱した。激しい下痢に苛まれ、水分が躰から失われていったのだ。三珠院までの途上、空腹に耐えきれず、通りすがった田圃で一握りの生米を盗って喰ったが、それが腹に中ったらしい。
岩窟に移ってからの数日は、意識を失っているのが常態で、数刻に一度、ほんの短い間だけ覚醒するという有様であった。
しかも意識のない間は、何か譫言を呟いていた。それが、かの源平盛衰記の一節、頼朝公が石橋山から落ち延びる件(くだり)であるとは、無論、与次郎には知る由もなかった。
(軍の習、或は敵を落し或は敵に落さるゝ是定れる事也。一度軍を敵に敗れ、永く命を失ふ道やはあるべき)
(此を遁れ出て、大事を成立てたらんこそ兵法には叶ふべけれ)
「と、殿さま・・・」
何度目かの覚醒であった。
薄目が開くと、眼前にぼんやりと与次郎の顔が浮かび上がった
次第に目の焦点が合い、与次郎の輪郭がはっきりとしてきた。
そこで三成は、即座に異変を察知した。
前に目覚めたときまでは、与次郎は親しげな笑顔を向けてきたが、今回は怯えるような表情でこちらを見つめている。
「如何した?」
声をかけると、与次郎の目に涙が滲みはじめた。
「殿さま、かたじけねぇです。かたじけねぇです」
「だ、だから、如何したのじゃ」
上半身を起こしかけて、三成は気付いた。
与次郎の背後に、もう一人、誰かがいる。
具足を纏った髭面の武士だ。
大刀を抜き、与次郎の背に切っ先を向けている。
「石田治部少輔殿とお見受け致す。某に同道されたし」
ーー九月二十一日、石田三成、遂に捕縛さる。関ヶ原の敗戦より六日目のことであった。
捕吏の語った処によると、与次郎の養子に当たる若い男が、与次郎に無断で東軍方に通報し、三成の居所が知れたらしい。
その後、与次郎がどうなったか、三成は知らない。
三成の身柄は、ひとまず井ノ口村に送られた。徳川家康から三成探索の責任者に任じられていた田中吉政が、其処に滞在していたためだ。
吉政は、若年より三成に親しく、三成の推挙で秀吉に仕えた人物である。
にも拘わらず関ヶ原では東軍についた負い目からか、三成を厚く遇した。
彼の用意した薬や食事のおかげで、三成の体調も回復し、二日ほどで、常のように起居できるまでになった。
三日目の九月二十四日、三成の身柄は大津に滞在していた家康のもとに送られることとなった。翌二十五日には大津に到着し、家康が直接引見する運びとなった。
三成は、衣服を改めさせられ、部屋で待たされた。
さすがに刀を帯びることは許されなかったが、躰を縄で縛られることはなかった。それなりの礼をもって遇されているようだった。
暫くして、家康が現れた。
「おお、治部殿。ゆるりと、ゆるりとなされい」
親しげに声をかけると、肥満体を揺らしながら足早に歩を進め、どかりと上座に腰を下ろした。
「最後にお会いしたのは、昨年の春、伏見であった喃。あのときは、よもやかくなる形で相見えようとは、夢にも思わなんだ」
感慨に耽るように宙を見上げる家康の顔を、三成は無言で見つめていた。
「儂が上杉を討たんと関東に帰った隙に、御身が兵を挙げようとは喃。いや、誠にもって由々しき知謀。この家康、心底慌てたぞよ」
勝者の余裕か、鷹揚に笑う家康に、三成も不遜な笑みをもって答えた。
「いやさ、内府殿がよもやあれほど早くに西へ軍を返すとは、この三成も慌てましたぞ」
「ふむ、勝負は天運と申す故、結果はかく相成ったが、両軍の力は伯仲しておった。一つ間違えば、儂がそちらに座しておった。治部殿にはさぞ悔しかろう喃」
家康の憐憫を示す言葉に、三成は胸を反らせて短い返答を放った。
「なんの、次は負けませぬ」
「次?」
家康の顔に、一瞬、不快の色が浮かんだ。
しかしすぐに、もとの鷹揚な笑みが戻った。
「ほう、次があると申されるか」
「もとよりにござる。こたびの戦、大義は拙者の側にござる故」
平然と答える三成に、家康は笑みを崩さなかった。
「大義、とな。立場が変われば大義の中身も変わるものじゃ。儂は儂の方に大義があると見ておるから喃」
亡き主君・秀吉の遺令を奉じ、豊家の天下を護らんとする石田三成の大義。
天下を手中に収め、世に泰平をもたらさんとする徳川家康の大義。
所詮、相容れぬは、必定。
「して、治部殿は如何にしてその大義を果たされるおつもりか?御身はいまや囚われの身ぞ」
「胸のうちの計略を敵将に明かす莫迦はおりますまい」
三成の返答をきいて、家康は大笑した。
「か、か、か、か。それもそうじゃ喃」
家康の笑い声が、ぴたりと止んだ。
「しかし治部殿、悪いが、次はないぞえ」
暫し、沈黙が流れた。
やがて、家康が冷たく言い放った。
「次はないのじゃ。御身は打ち首と決まった。儂が、いま決めた」
その後、三成の身柄は京都所司代・奥平信昌に引き渡されることとなった。
京都までの途上、相前後して捕らえられた小西行長、安国寺恵瓊とともに、首に鉄輪をはめられた姿で大坂と堺の市中を引き廻された。
そして、十月一日、処刑が決行されることとなった。
この日、車に乗せられて六条河原の刑場へ向かう間も、三成は、常と変わらぬ泰然たる様子であった。
ーー大義は我にあり、心中一点の曇りなし。されば天の助け、来たらざることあるべからず。
この期に及んでも猶、三成は脱出の好機が来ると信じ切っていたのだ。
三成は、車を警護する武士のひとりに話しかけた。
「喉が渇くのじゃが、白湯を一杯、飲ませてはくれぬか」
警護の武士は、最初自分に話しかけられたとは分からず、辺りを見回した。
やがて三成と目が合うと、周囲をはばかるように小声で答えた。
「か、忝い。湯は持ち合わせてござらん」
「左様か。是非もない」
すまなそうな武士の顔を見て、三成も諦めた様子だった。
応仁の乱以降、百年続いた戦乱で荒廃し切った京都を再興したのは、誰あろう豊臣秀吉である。洛中に住む者の多くは秀吉の恩を忘れてはおらず、豊家の為に兵を挙げた三成に同情していた。京都所司代に仕えるこの武士も、或いはその一人であったかも知れない。
数歩進んで、武士は思い出したように懐中から何かを取り出し、三成に示した。
「干し柿にござる。これで喉を潤してくだされ」
すると、三成から意外な返答が返ってきた。
「干し柿は痰の毒じゃ」
武士は思わず吹き出してしまった。
「死に臨むお方が、痰の毒をお気になさるとは。さあ、遠慮のう喰うてくだされ」
親しげに勧める武士に対し、三成は首を横に振った。
「大義を抱く者は、首をはねられる瞬間まで命を惜しむものよ」
このとき、三成の脳裏には、やはり源平盛衰記の石橋山の件が浮かんでいた。
(軍の習、或は敵を落し或は敵に落さるゝ是定れる事也。一度軍を敵に敗れ、永く命を失ふ道やはあるべき)
(此を遁れ出て、大事を成立てたらんこそ兵法には叶ふべけれ)
しかし、果たせる哉、三成が頼朝公のように大義を遂げる機会は、遂に来なかった。
慶長五年十月一日、石田治部少輔三成、京都六条河原にて刑死。享年は四十一と伝わる。
その首は、三条の橋畔にさらされた後、大徳寺三玄院に懇ろに葬られた。
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