映画:アンダードッグ 前編・後編

僕は正直、ボクシングがあまり好きじゃない。

だから、この競技の美しさについては、見る目がない。

見所が分からないから、面白さもよくわからない。

それでも、なんて美しい競技なんだろう、と観ていて思った。

出てくる人は、皆、くすんだ人生を生きていて、輝かしいものはない。

きっと、この先も、最期まで輝かずに死にもするだろう。

そういう人生にも、その人なりの見処は必ずあるものだけれども、それすら見失う事もある。

見失う事の方が、寧ろ、多数派ではあるまいか。

そんな現実に向き合いながら、己を生きる。

そういうテーゼは、決して新しい機軸でもないだろうから、映画史における『アンダードッグ』の位置付けが、どんなものになるかは分からない。

嫌になるくらい、映画を観てきた人には、これは特別な映画とはならないかも知れない。

そういうやくざな事を考えるくらいの、醒めた心はあった筈なのだけれども、出てくる人達の人生が幸せになって欲しいと心から願いながら、見続けた。

現実の自分の人生よりも、架空の彼等の人生の幸福の方が、確かにより望ましかった。

そんな気持ちでスクリーンに対峙できる人生とは、相当に下らないものであったとしても、まあ、悪いものでもない気もしている。

絶望的な結末が用意されていない代わりに、最期まで、明るい未来も予見できない映画だったと思う。

そんなに魅力的とも言えない男を主軸に、4時間ものドラマを観ることは、必ずしも楽しいものでもない。

ちょっと面白い場面もあるし、センチメンタルな所も皆無ではないけれども、観るに耐えない嫌な場面もなかった訳でもない。

それでも、終幕の一戦は、とても美しかった。

ボクシングというものが、実際の試合でも、あんなに美しいものなのかは分からないし、もしかすると、もっともっと、遥かに美しいドラマがある競技なのかも知れない。

殴りあってボロボロになっていく、ただそれだけの事だと思う。

ただそれだけだから、力強い。

世の中に、そういう美しさがあることを、僕は今日まで知らなかった。

気が付かなかったのではなく、全く知らなかった。

綺麗に描かれないから、余計に美しいのだと思った。

顔を腫らし、血を吐き、ダウンする。

リングの外で起きている事は、全てが滑稽に思える程に、よい試合になっていた。

勿論、その一戦へと至る道筋が、巧みに描かれていたからこそ、そう思うのだろうけれども、人間が本気であれる時間の短さが、ありありと描き尽くされているような、そんな気がした。

僕には、好きな役者が二人いる。

一人は、石橋蓮司。

そしてもう一人は、今回の主役を演じた森山未來。

出演作を必ず見るという程でもなく、どちらかと言えば、たまたま観たものに彼らが出ていて、観れば必ず引き込まれる、という程度にしか好いてはいないのだけれども、好きだ。

だからこそ、ボクシングの映画なんて、観たくはなかったのに、観に行く気になった。

そして、やっぱり、観て良かった。

ただ、この映画で一番凄かったのは、ボクシングジムの会長だった。

役者が凄い演技をしているのか、それとも、本当にこういう人がいるのか、分からなかった。

この人がいなかったら、『アンダードッグ』という映画の美しさは、半分もなかったと思う。

あの会長がいなければ、このボクサーは生まれまい。

彼ら二人の見た景色は、他の誰かが何処から見ようが、到底、味わい尽くせる様なものじゃない。

それが何だかとても尊く思えた。

この映画には、本当に実力派の名優が揃っている筈なのだけれども、彼らが時に、役者が演技をしているかの様に思えてしまう程に、会長の立ち居振舞いが、僕には真実に見えていた。

ちょっと怖いな、と思う。

フィクションと現実の線引きが、自分の中で、どんどん曖昧になって来る。

それは、映画がリアリズムを追求して来た歴史の成果なのかも知れないけれども、現実を半ば放棄して、画の中の方に真実を見出だしてしまう、自分自身の逃避の証とも限らない。

そして、この架空のドラマは、何時だって、向き合いたくない現実に目を背ける事を指弾する。

とても倒錯した形で、現実が自分へと返ってくる訳だ。

エンターテイメントとは、こんなにも残虐なものなのか、と思う。

だから、僕は映画が余り好きではないのだ。

美しいドラマは、必ず実生活に跳ね返って来て火傷する。

そして、跳ね返って来ないものなど、少しも詰まらない。

映画といい、ボクシングといい、その美しさを愛する人達は、本当に強いなと思う。

実生活に逃げたくなるくらい、夢の世界は苦しいものだ。


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