CD:草陰の小径にて

あなたが一番好きなピアノ音楽は何ですか?

と訪ねられたら、私は誰の作品を挙げるだろうか。

きっと直前に聴いて好かった曲を挙げるだろう。

選ぶことなんて出来ない、とも言えるし、常に選ばれる程に決定的な音楽などない、とも言える。

そして、今日は、ヤナーチェクと答えそうな日和である。

余り聴きはしないけれども、聴けば必ず好い曲なのだ。

演奏者は、日本の楽譜出版社から出ているヤナーチェクのピアノ譜の校訂をしており、それに合わせて収録されたものらしい。

だから、もしかすると、愛好家よりも学習者の間での方が、このディスクの存在は知られているのかも知れない。

弾いているのは、余りよい響きのピアノではない気がした。

輝きも、潤いも、温もりも、色気も、ない。

その特別感のなさが、存外、ヤナーチェクの音楽には馴染みがよい。

演奏も、模範となるべく意図されているのではないかと思う。

狂気も、陶酔も、独白も、悲哀も、ない。

それがまた、楽器の響きに合っている。

ヤナーチェクのピアノ作品には、幾つもの素晴らしい録音がある。

その中から、このアルバムを選ぶ意義は、多くの人にとっては、少ない筈だ。

今日、こうして聴いているのも、昨日、たまたま購入したから。

たまたま購入したのは、悲しいくらい安価であったから。

聴いてみて、全く、想像の範疇の演奏でもあった。

だから、落胆もなければ、驚嘆もない。

何となく、日本っぽいヤナーチェクが聴けるかな、という予想は的中だった。

誠実で生真面目で、精一杯の正しさを追い求める。

ニュートラルとも言えるし、無国籍な態度とも見える。

正直、詰まらない演奏だと思う。

だけれども、その詰まらなさこそが、本邦における洋楽のオリジナリティーであるならば、案外に、味わいは薄くはないかもしれないな、そんな気も年々増して来る。

伝統や文化は、守ろうとして守れるものでもないし、作ろうとして作れるものでもない。

しかも、ある種、常に過去の中にあって、明日に呼び掛けるものだ。

今様の邦人演奏家は、この詰まらなさから必死に抜け出そうとして、暇がない。

きっと遠からず抜け出すだろうし、既に抜け出した感すらある。

だからこそ、いつの日か、こんなヤナーチェクが懐かしく思えるに違いない。

昔の事は、今となっては分からない事が甚だ多い。

だけれども、今の事は、答えが定まっていない分、いよいよ、殆んど分からないというのが実状だ。

ヤナーチェクの音楽は、永らく人々から理解されなかった。

ヤナーチェク自身、確かな手応えのある作品を生み出せる様になったのは、50歳も過ぎてからの事だった。

どのくらいの予感と確信をもって、ヤナーチェクが、大作曲家ヤナーチェク前夜を生きていたのかは分からない。

誰にも、そういう予感と確信はあるものなのかも知れない。

そして、全ては過ぎてみないと定まらない。

ヤナーチェクは、そんな不確実性を、否応なく突き付ける作曲家の筆頭だ。

このアルバムには、『草陰の小径』の他に、『1905年10月5日、街頭にて』、『霧の中で』が収められている。

曲が進むに連れて、演奏も立派になって行く。

それだけ、作品の方が円熟しているのだろうと思う。

とても誠実な事である。

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