展覧会:ゲルハルト・リヒター展

兎角、観るものに考える事を強いる現代アート界にあって、ゲルハルト・リヒターは一つの良心、その作品はオアシスである、と言っていい。

ただ、何も考えずに観ればよい、そういう究極の見世物が、この人の作品には通低してあって、何よりも、リヒターという人は、自身、よくよく、世界を観る人なのだ。

昨日、ゲルハルト・リヒター展を観に行って、そんな風に思った。

つい、先月までは、リヒターの名前すら知らなかった人間の、予備知識なしの感想だから、全く信用の置けない印象ではあるのだけれども、少なくとも、作家の弁や、世間の通念よりも、作品の方を信じてやらねばならないくらいには、この人の作品には、作為というものがなかった。

観て飽きることがないし、いつまでも観ていられる優しさに溢れた作品群は、描かれた対象を、或いはその手段となる材料、工程、色彩、造形そのものを、大変に深く慈しみ信頼する所から出発しており、そのままゴールともなっている。

観たままを観ればよい。

17世紀のオランダの風景画、或いは、バルビゾン派の敬虔な風俗画にあってすら、ここまで、ありのままを観ればよい、とは言わなかったのではあるまいか。

それくらい、明らかなモノを、造り続ける。

或いは、考えるという事を、言語や思考ではなく、視覚でもってやっている。

言葉や概念には置き換えられないもの、モノとはそういう存在でなければならない。

真夏の青空、晩秋の夕暮れ。

それ等に、一々、人的な意味を見出ださなくちゃ気が済まないとしたら、それは、観ていないも同じじゃないか。

それくらい、観ることは哲理であって、この人くらい、観ることを明け透けに描けた大才もあるまい。

事件も、存在も、思念も、情念も、全ては視覚によって完結している。

デュシャンが便器を持ち出すのと、リヒターがガラスを持ち出すのとは、概念と実存の対になっていて、そこにあるのは、見えざるモノを視よ、という挑戦状ではなく、ガラスそのものの持つ美しさを信頼し、見極めている人の眼が、僕らにも視る事を、控え目に、しかし、そこから逃れる事のない様に、促している。


たまには、よく解らないもの、そこまで興味の湧かないもの、そういうものにも触れなくちゃいけないな、と思って観に行ったのだけれども、だからこそなのかも知れないけど、笑っちゃうくらい、みるみる好くなっちゃって、困った展覧会だった。

きっと、ゲルハルト・リヒターという人を、この時代が取り巻く風潮にを、少しなりとも知ってあったなら、全く違った印象が沸いて来たのだろうけど、どんな正しい理解も、初見のトキメキには叶うまい。

僕らに都合の好い美しさ、そんなものは全てまやかしで、人間は、目前にあるものを美しいと認めるより仕方がない生き物だ。

人間の都合など知ったこっちゃないモノが、人間に対して美しくある。

その現実に対して、とっても素面で、鋭敏で、いつでも直面している作家。

ゲルハルト・リヒターは、本年90歳なのだそうだけど、眼はいよいよ、世界をありありと観ている様だ。

いつまでも、どんな人か知らない、と言うのも不実だろうから、出口で展覧会の図録を買って帰って来た。

それは、思ったよりも高価で、金額を知っていたら、レジには並ばなかったかも解らない。

次は、図録に目を通した後の、初見よりも曇った瞳で、観に行こうと思っている。

素晴らしい展覧会図録は、大抵、僕らの無邪気な感動に水を差す。

もっと向き合う事を強いるのだ。

その時に、ゲルハルト・リヒターの画を観るのが苦しくなるのか、一層、癒しとなるのかは解らないけど、何れにせよ、観ていて、あんなに気分の好いアートは初めてだった。

綺麗な毛並みの動物も、獲物を捕獲して生きている。

その様を切り取って、世の中がいくら残虐だと言ったって、晴天は晴天、曇天は曇天だ。

そこから逃げなかった眼。

だからこそ、人情作家なんだな、リヒターは。

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