映画『結婚哲学』『ウィンダミア婦人の扇』と『メリー・ウィドウ』

エルンスト・ルビッチ監督のサイレント映画を二題、『結婚哲学』が1924年、『ウィンダミア婦人の扇』が1925年。

それに、トーキー時代の『メリー・ウィドウ』(1934年)を。

男性は純粋、女性は無垢。または、男は軽い、女は怖い。シリーズ。

DVDにて見聞。

何れも、軽妙洒脱な作品と評価されているものの、『結婚哲学』は、ミッツィ・ストーク役のフローレンス・ヴィダーの怪演が目茶苦茶怖かった。

画面も、演劇をそのままカメラに収めた様な、こじんまりとした感じがあって、モノクロームという事を割り引いても、色調がちょっと暗い。

ルビッチが陰鬱な映画を撮ろうと考えていたとは素人目にも見えないコメディのだけれども、1世紀という月日の隔世のせいなのか、素面ではどうにも笑えない距離を感じた。

古いから見方が分からないのだとしたら、それはこちらに素養が足らないという事だ。

もしくは、作品に時代に縛られない普遍性がないのかも知れないし、今日という時代の方に堪え性がないだけかも。

最後の5秒で、しれっと軽く翻して終わるのがルビッチの醍醐味なのだけど、その軽さがミッツィの怖さを鮮明に描き出している気がして、後味があまり美味じゃない。


一年後の作品『ウィンダミア婦人の扇』は、打って変わって、アーリン夫人役のアイリーン・リッチが、人々を翻弄していく様が誰の目にもコミカルだ。

競馬場や舞踏会のシーンはとっても華やかで、画も全体的に明るくなる。

そして、すれ違う親子の情愛の儚さが、笑いに彩りを添えていく。

だけれども、寂しい終わり方をするのだろうな、と油断していると、最後の最後、アーリン夫人の魅惑が爆発して、急展開に置いていかれてしまうに違いない。

え? 何で? という終わり方。

けど、ルビッチだったらそうだよね、と得心させられてもしまう一番の名場面。

呆気に取られたけど、後味は最高だ。

面白いは正義、そんな映画。

エルンスト・ルビッチのテイストはやっぱりアレグロで、モーツァルトの音楽みたい。

それは、トーキー時代の代表作『メリー・ウィドウ』で、いよいよ極まっている。


『メリー・ウィドウ』は、レハールのオペレッタを元にして、音楽も借用しながら、筋書きはかなり自由に書き換えられていて、オペレッタよりもいっそう軽やか。

画は勿論、筋もルビッチ全開。

カンカンの場面など、もう、上品さやお洒落さすら超えてエロチシズムが襲ってきて、破廉恥なくらいだ。

大勢がワルツを踊る絢爛豪華な場面は、何だか往年のドリフターズのコントを思い出させられるのだけど、製作年代では、勿論、こちらが先。

最後の最後、もう笑うしかない大団円が待っているのといい、きちんとしたストーリーがあるというよりは、お約束の連鎖という風合いで、コメディというか、コントというか、ギャグというか、兎に角、何でも面白がるのが苦手な人は、これは観ない方がいい。

素養は要らないけど、資質は問われる映画。

時代の空気を共有していない分だけ、古典は難しい。

特に笑いは、お約束、共通認識が大前提となるものだから。

アンジャッシュのすれ違いコントすら、昔のものとなりつつあるスピード社会にあって、何でも心から笑えるという性分は、これは観る方のスキルと言ってもよいのかも知れない。

映画に限らず、例えば、18世紀の平凡な台本に平凡な音楽を乗せた喜歌劇の面白さって、当時の人には、きっと、モーツァルトの傑作よりも面白かったと思うのだけど、21世紀にもなって、その中に分け入るのは大変で、非凡な物に感嘆する方がよっぽど凡庸で、凡庸な物に感嘆する方が幾ばくか非凡とも限らない倒錯がある。

歴史とは伝統ではなく古典である、と言われる意味も、きっとその辺に転がっているのだろう。

ルビッチの面白さは、半古典、半今様。

微妙に分かるから古いし、分からないからまた古い。

却ってそれが新しくなるには、多分、もう少し時代が過ぎる必要がある。

否、Z世代には、もう新鮮かも知れないけど、昭和生まれの私には、ルビッチは、そんなに古くもない。

でも、懐かしくもない。

時代に縛られているのは、画の方じゃなくて、結局、観る者の方なのだ。


『ウィンダミア婦人の扇』のDVDには、淀川長治さんの解説が入っていて、それこそ懐かしかったのだけれども、その中で、ルビッチは女性を描くのが巧みである事が指摘されていた。

ルビッチの映画を幾つか観てみると、この人は、あんまり男目線で映画を作っていないんじゃないかな、という気がして来る。

一見、ハチャメチャに見えるのも、男からの目線であって、女性の視点から観れば、寧ろ、筋はしっかりと通っているんじゃないかな、と


そこにあるのは、男女の色恋、恋の駆け引きではなくて、女性の実存に関わる物語。

けれども、ルビッチは男性だという倒錯が、ミッツィやアーリンやソニアを追い詰めてもいる。

『桃色の店』のピロヴィッチや『想ひ出』のユットナー博士の役割りを担う人がいないと、軽妙洒脱が荒唐無稽に寄って行く。

結局、自分が好きなのは、エルンスト・ルビッチが描く男なのだと思う。

恋愛よりも人情が好きなんだ。

今回観た3作品の中では、『ウィンダミア婦人の扇』が断トツで好かったのも、男そっちのけではあったけれども、親子の情愛劇が展開されたからこそ。多分だけど。

エルンスト・ルビッチを観ていたつもりが、結局は、映画を通して自分を知る事になる。

正直に言うと、ずっと映画が苦手だった。

けれども、やっと少しだけ、ほんの少しだけれども、映画を観られる様になって来た。

エルンスト・ルビッチに出会わなかったら、そんな事には、多分、一生ならなかったと思う。

月に一、二回、映画館へ通ってはいるけど、映画には出会わずに終わっていたに違いない。

臆面もなく観て平然と過つ。

何かを通じて自分を知る事になる、とはそういう意味だ。

そして、そんな風に付き合えないものなんて、なくても一緒じゃないかと思う。

映画は、過つ事を中々許してくれなかったのだけど(それは全くこちらの心構えの問題に過ぎない話なのだけれども)、ルビッチはとっても寛容で、こちらがどんなに過っても泰然とあり続けてくれる。

そういう相手は、音楽であれ、絵画であれ、文学であれ、そんなに多くはない。

実生活では、いよいよ少ないかも知れない。

何でも自由に好きに感じれば良い、という割には、世の中には、正解が多過ぎる。

特に、言葉を介在する表現物には。

そんな中、映画の世界で、過つ事を初めて許してくれたのは、エルンスト・ルビッチだった。

それは、単なる偶然、タイミングの問題だけど、一つの人生として自分を生きている立場から見れば、決定的な入り口で、一大事だ。

音楽にヨーゼフ・ハイドンあり、小説にスタンダールあり、絵画にサロモン・ロイスダールあり。

映画には、エルンスト・ルビッチあり。

要するに、多分、この人の作風が好きだという事、そして、映画はこの人を機軸にして観ると決めたという事。

ただ、それだけ。

それだけの事にいつだって時間が掛かる。

好きなものを知るって、本当に難儀だ。

良し悪しの方が、余程容易いに違いない。

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