音楽:ルイ・シュポアとの遭遇

アルフレート・ヴァルターという二流の指揮者がいる。

それは、良い意味で三流じゃないという事でもあり、良くも悪くも一流じゃあないという意味をも含めて、賛辞としての二流の指揮者だ。

この人の録音した、オペレッタの名曲集がとても好かったので、他にも聴いてみたくなったのだけれども、大曲となると、余りメジャーな作品の録音がなくて、フルトヴェングラーやシュポアの交響曲が、功績としては目立ったものとなっている。

その為に、フルトヴェングラーとシュポアの、作曲家としての顔を拝んでみる気になったものの、ヴァルターのディスクは入手に手間取りそうなので、取り敢えず、他の指揮者の録音で、シュポアを聴いてみる事にした。

フォーカスが、本来の指揮者から作曲家へと移ってしまった訳だけど、出会いとは、得てして、何時も、そんな気まぐれから始まるものだ。

作者:ルイ・シュポア
作品:交響曲全10曲
采配:ハワード・グリフィス
楽団:ハノーヴァー北ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団
録音:2006-12年

ハワード・グリフィスも、マイナーな作品の録音が多い指揮者。

ただ、この人は、マイナーな作品の録音に、もともと積極的な人らしい。

ヴァルターは、単に使い勝手のよい指揮者として、マイナー作品の録音プロジェクトによく起用されていた指揮者の一人に過ぎない、そんな風に見えるのに対して、グリフィスは、もっと強かに、自分の活路をこの界隈に見出だして、すっかり一流の世界にまで上っていった中々の策士、という印象がある。

だから、正直に言うと、あんまり面白味は感じなかった。

グリフィスは、仕事がとても丁寧で綿密だから、こちらも真面目に向き合わないといけないな、という気持ちになって来る。

シュポアの交響曲を聴くのは初めてだけれども、多分、そんな風に真面目に向き合ったら、敗けなのだ。

劇場の雰囲気、その場の空気に飲まれてこそ真価を発揮する、シュポアの天才のありかは、肌感覚で捉える必要がありそうだ。

そういう音楽が浅はかだと言えば、確かに、そういう思想はありそうで、所謂、シンフォニーという枠に求められる造形美は、些か弱い。

バレエ音楽くらいに思って聴いた方が、シュポアの音楽は息吹を返しやすそうで、その方が、シュポアの無類の天才性も自ずと見えて来る。

シュポアに書けないものをベートーヴェンが書いた位には、ベートーヴェンに書けないものをシュポアもまた書いている。

だから、ベートーヴェンの交響曲を紐解く作法で、シュポアの交響曲を解いてしまうのは、全く粋じゃない。

けれども、その無粋さが、また、シュポアの本質を炙り出す効果も確かにあって、実は、そんな倒錯した面白さこそが、グリフィスのシュポアに隠されたものだとも思うけど、それを味わうには、21世紀は、未だ未だシュポアを食い散らかしてはいないから、グリフィスの采配はとっても先進的で、同時代を生きる僕らには、やや高尚な諧謔性をも孕んだ、難しさがある。

歴史の再評価は(否、グリフィスのシュポアは、今でも既に高く評価されているけれども)、必ず、将来グリフィスに微笑む事になる筈で、今、シュポアのシンフォニーに決定的に足りないものは、その土台となる演奏の歴史の方だ。

演奏されればされる程に、ベートーヴェンがいよいよ巨人となって来た様に、シュポアもまた、屈託なく愛される大人物となって行く、そんな予感がグリフィスのシュポア全集には満ちている。

だから、今は未だ、ちょっと面白いと思えない。

勿論、ヴァルターのシュポアが、どんなものかも、未だ聴いていないので解らない。

ただ、この人が本領を発揮したらシュポアは面白いぞ、という事だけは疑いようがない。

そんな見立てに耽る事が出来るくらいには、既にシュポアの交響曲が、私の中では確かに素敵な音楽として鳴っている。

シュポアの年齢を大雑把に言うと、ベートーヴェンよりも一回り下の世代、シューベルトよりは一回り上、そして、シューベルトより更に一回り下のシューマンとは36歳程の年の差がある。

シューベルトが二回り上の世代のベートーヴェンとほぼ同時期に夭折した様に、シュポーアは二回り下のシューマンと没年が割かし近い。

詰まりは、ドイツの音楽の変遷を聴く上で、シュポアはとてもキャリアの長い作曲家であり、しかも、晩年まで創作活動も活発だった人だから、音楽史における立ち位置も、生年で見るよりも、歿年で捌いてみた方が、実は解りやすい。

シュポアは、兎角、ベートーヴェンと比べて語られて来た嫌いがある。

実際、ベートーヴェンと交流があったのだから、それは当然と言えば当然なのだけれども、シュポアの作曲の最盛期は、寧ろ、後年に寄っているので、シューマンと重ねてみるくらいの方が良さそうだ。

この人の音楽、余りクラシカルに捉えない方がいい。

過渡期の音楽とも見ぬ事だ。

寧ろ、ベートーヴェンとシューマンが、経過句とも限らない。

その方が、シュポアの音楽が持っている、一見とても古典的で均整の取れた語法の面白味も見えて来る。

実際、晩年のシュポアの感性はとっても瑞々しい、能天気な陽気さがあって、19世紀のドイツ音楽の見落とされ勝ちな一面、寧ろ、正調はこちらの方にあったのではないかとすら思える、突き抜けた世界が広がっている。

今日、僕らが持っているドイツ音楽の王道こそは裏道で、闇の系譜を愛でる不健全さに知らず知らずに病んでいるとも限らない。

能天気な音楽は、能天気にやればやる程に、心に深く突き刺さる。

そんな無邪気な世界にフルダイブ出来ないとしたならば、それは歳を取ってしまったからではなくて、きっとまだまだ取り足りないからだ。

シュポアの様な創作家こそは、正しい意味での老成作家と言うべきで、とっても大人な音楽だ、と臆面もなく言いたい気持ちが、強くある。

一般に、シュポアが時代遅れの古典的な作風と見なされるのは、こちらが、ついついシリアスなドラマを探ろうとするからで、そんなものは、シュポアの音楽には元々ないものだ。

だからこそ、尊い。

これは、軽妙洒脱とも違う、未だしも軽薄低俗と言う方が近い、心身の軽やかさ。

20世紀が、そういう音楽を蔑んだのには、きっと世代的な宿命が働いて、歴史の力学が作用したからだと思う。

それもまた正解で、無理解と嘆くべきでもないけれども、僕らのマインドは、そんな前世紀を既に過ちと見なしつつもある。

何だかシーソーゲームみたいな話になってしまったけど、シュポアの音楽を目一杯明け透けに、無邪気に鳴らした虚しさに、すっかり心を委ねたい。

その虚無感が耐え難く不安だと言うならば、人生の短さについて、とか、もののあわれ、とか、そんな言葉に差し替えても構わない。

どうせ、シュポアの音楽の価値なんて、シュポア本人が一番見損なっていたに決まっているのだから、見誤ったとしても、今更、臆する事もない。

兎に角、活きた音楽としてシュポアを聴きたい。

当て馬でもアンダードッグでも構わないけれども、この人の音楽は、とても活力に溢れているものだから。



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