展覧:響きあう魂
作家が本質的に不幸なのは、文学であれ、音楽であれ、美術であれ、描き得ないものを何とか具現化したい、という根源的な野望がある為で、そこには自ずから無理があり、不自然に自ら飛び込んでいく者であるからだ、と思う。少なくとも、そういう渇望のある作家が、私は好きだ。
言い換えれば、本質的に不幸である、という事は、至福に生きる事なのだ、と理解している。
沈黙を描くために決して沈黙しない、そういう静謐さを湛えているのが、作家だと、勝手に思い込んで、我はある。
それは、職業というよりは、真人間をやってみようという誠意の問題であって、少なからず、生きる者はみな作家なのだ。
歴史を紐解けば、人間というのは、色々な事を自らやらなくても済むように、生活に不可欠な事ほど、能率的に自動化出来るように、歩んでいる。
そうして、空いた分を、不必要な事に惜しまず投じていく。
僕らが走るのは便利な車があるからで、歌を歌うのは洗濯機があるからだ。
抽象的な思考も発明も、遠からず、人間の脳髄を離れて、すっかり自動化されて、生活苦からはいよいよ解放されるだろう時こそ、きっと、人はよく考える様になるに違いない。
僕ら平民が、いつまで経っても浅はかなのは、何より、思考が生活に不可欠であるという、過酷な現状のためにこそある。
考える必要のある限りは、人間は、上手に考える事が出来ない。
車がなければ、人はこんなにも真剣には、走らなかったに違いない。
そんな事をふと、オリンピックとショパン・コンクールが、同時に、しかも一年遅れで開催された年に、考えるでもなく思った。
これは、論拠もなく半分冗談だ。
だからこそ、思わぬ含蓄も少しはあるかも知れない。
それは、本質的に含蓄でしかない、誠実に論証された哲理ほど、時に滑稽に見えるのと同じ事で、人間は、案外に、素直じゃない生き物なのだ。
走らざるを得ない人生、歌わずにはやってられない生活、そういうものから解放されて、初めて人は極みを目指す。
やらなくてよい事をやる事こそが、何だか美しくなって来る。
それは、結局、やる事が減ったからじゃああるまいか。
先日、上野にゴッホ展を観に行って来た。
ヘレーネ・クレラー=ミュラーのコレクションが優れているのも、本質的には、富豪であったからではないと思った。
メイドがいたからだ。
そして、私が彼女のコレクションに感嘆出来たのも、家に冷蔵庫があり電子レンジまであるからだ、と言って構わない。
ヘレーネという人は、多分、才能のない平凡な、誠実で節度のある婦人であったのではないか、彼女の集めた作品を観ていると、そう思えてならなかった。
だから、僕らにとっても、クレラー=ミュラーのコレクションは、素敵なものとなっている。
好い絵がとても多い展覧だな、と思えたのは、何より、互いの凡庸な精神が、時代と階級を越えて、深く共鳴したからだと思った。
そういう人間から観た絵画、ゴッホが確かにある様に思われた。
そんな企画展に出会すのは初めてだった。
多くの作家は、才能に苛まれている。
一流の収集家は、その審美眼に苛まれる。
ヘレーネのコレクションの強みは、そういう不幸が微塵もない事で、だから、あれだけゴッホの作品を集める事も出来たのだろうと見える。
開館当時のクレラー=ミュラー美術館の様子を写した写真の複製が、作品の掲げられていない殺風景な壁を隠すかの様に、あちこちに飾られていて、それがゴッホの絵画と同じくらいに目を引いた。
そこに写し出されている美術館の様子は、やっぱり、どこかセンスが良くない。
それが何より、らしくて好いな、と思った。
もしかしたら、ヘレーネが凡庸な人だと見える様に、わざわざ、膨大なコレクションを厳選して、上野に持って来た企画なのかも知れない。
そもそも、僕らが、高々、数時間、美術館に滞在して受け取り得るメッセージなんてものは、すっかり知れているのだから、きっと、何を思っても誤りだ。
だから、ヘレーネが実際には才女であったとしても、別段、驚きはしないけれども、兎に角、凡庸な人だと強く印象付けられる企画展ではあった。
だから、もう一度、是非とも足を運びたいとも願っている。
自分もこれ欲しいな、と思う画が、こんなにも溢れている展覧会も珍しい。
ゴッホの作品も勿論だけれども、それ以外の作家の画の方が、寧ろ、今回は見物となっている。
それを、殆んど貸切状態で好きな様に観られたのは、幸運というよりは仕合せだったのかも知れない。
『響きあう魂 ヘレーネとフィンセント』という展覧名は、すっかり間違いだと思った。
ヘレーネには、ゴッホの魂は響かない。
そのくらいの事は知っている人だ。
だからこそ、いち早く、ゴッホを理解したと言ってもいい。
そして、ゴッホに至っては、仮にヘレーネと対峙する運命があったとしても、いよいよ、微塵も響かなかったに違いない。
その構図が痛々しい、という程には、世の中は柔でもない筈だから、とても美しい関係性だな、と思った。
凡庸であるという事を、突き詰めた先に広がる世界、そこに平然とゴッホやルドンが並んでいる。
それを、漠然と上野で眺める我がいる。
実に、2021年という気がした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?