映画:ハニーランド 永遠の谷

ドキュメンタリー映画には、どこまでが現実で、どこからが創作なのか、という問題が常につきまとう。

誰もが、作り話に感動するのと、実話に感動するのとでは、質が違うと感じているからだ。

そういう作り手の作為、受け手の疑心を飛び越えて、ハティツェは、何処までも等身大の自らをスクリーンの前にさらけ出している。

北マケドニアの崩壊集落の最後の住人で、高齢の母親と二人だけで暮らすハティツェは、同時にヨーロッパ最後の自然養蜂家でもある。

無論、そんな事は、本人にとっては、どうでもよいことに違いない。

映画は、彼女を何か高貴な存在として描きたかったのかも知れない。

だけれども、彼女は、至って普通の女性であると、僕は思った。

だからこそ、この映画で描かれる全てのものが、特別なのだと。

生活している環境が少しばかり古風なだけで、彼女は、現代を拒絶している訳でもないし、自然を崇拝している訳でもない。

生まれ育った環境で、ずっと従順に歳を取って来ただけだ。

商人との駆引きだってするし、ご近所との諍いだってある。

それでも、蜂蜜を「半分はわたしに、半分はあなたに」生きるのは、養蜂家としての、当たり前の心掛けなのだ。

最愛の母親は、病気で寝た切りで、娘の言葉も全ては聞き取れない。

ハティツェは、時にそんな母親に苛立つのだけれども、彼女の生きる支えもまた、この母親あればこそなのだ。

もっと違った人生があったかも知れない事を、彼女自身もよく分かっているし、多分、今の人生に全くの後悔がない訳でもない。

それでも、全て受け入れて、時に無邪気に、時に気丈に生きていられるのは、決して、彼女が独りではなかったからだ。

最後の自然養蜂家、廃村、高齢で寝た切りの母、独身の娘。

映画に切り取られた北マケドニアの風景はどうにも雄大で美しく、ハティツェの生活は過酷であるけれども、人間本来の正しい生活にも見えて来る。

その全てが、確実に終焉へと向かっている事を、誰もが解っている。

解っているけれども、実は、それをきちんと受け入れられないのが、ハティツェの本心だ。

人々は、こういう生活が地球上から失われていく事を惜しむだろうが、自らこんな生活をしたいと望みもすまい。

ハティツェは、自分の物語が語られる事を望んだそうだ。

そこには、現代社会に対する自然養蜂家としてのメッセージがある訳でない。

一人の人間としての、素直な承認欲求だ。

僕は、何より、その素直さが美しいと思った。

荒涼とした大地、切り立った崖っぷちを進んだ先に蜂の巣がある。

そんな過酷な道程よりも、高齢の母親が、病気で寝た切りになってしまった事の方が、彼女には過酷に違いない。

自然養蜂家としての気負いなど、微塵もないドキュメンタリーだったと思う。

それ故に、現実の過酷さが、いよいよ、僕の胸を締め付ける。

観終わった瞬間に、もう一度最初から観たいな、と思ったのだけど、最終日の最後の上映を観に行ったので、一度きりしか観られなかった。

余程、それが悔やまれたのか、帰り際、パンフレットを何故か二部求めた。

どうして二部も買ったのか、今思えば滑稽なのだけれども、きっと二回観たとしても、やっぱりパンフレットは二部買ったんじゃないかな、という気がする。

一部は自分に、そしてもう一部は誰かに。

きっとそんなところだろう。

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