CD:金聖響のブラームス
ブラームスの交響曲は、久しく聴かなかった気がする。
嫌いではない、けれども、何となく、かったるい気がして、遠退いていた。
金聖響も、特に関心のある指揮者ではなかった。
一時、とても脚光を浴びていて、期待の若手という立ち位置であったけれども、名まえを見掛けなくなって、やはり久しい。
だけれども、中古レコード店で、ブラームスのサイクルのCDが廉価で並んでいたのが目に入り、ふと、聴いてみたくなった。
丁度、今、日本の楽団によるシューマン演奏を体系的に聴いてみたいと思って、色々、物色している所なので、ブラームスも、その延長線上で、聴いてみようと思うのも、自然な成り行きには違いない。
勿論、一番の理由は、安かったからなのだけれども、半ば、社会的な制裁によって、日本楽壇から葬り去られた人の業績を、そろそろ、冷静に聴ける頃合いだとも思えたのも事実だ。
往時は、人気も高かったし、名前が、余りにも音楽が天性というビジュアルだったので、正直、敬遠して聴いた事は一度もなかった。
人気が高ければ、当然、批判的な態度で向き合う人も多くなるから、割りと激しく賛否の別れる指揮者だったと記憶している。
実際、ブラームスを聴いてみると、これは意見が割れても当然だと思った。
立派な演奏である。
後は、ブラームスに何を聴きたいか、金聖響に好意を抱けるか、こちらの度量の問題だ。
ブラームスに何を聴きたいか、正直、自分にはその自覚がない。
シューマンの交響曲ならば、日本のオーケストラで聴きたい理由は明確だ。
それは、シューマンの音楽に最も合致した音楽性を持っているのが、日本楽壇だある様な気がしているからだ。
少なくとも、梅雨の季節のある土地でこそ、シューマンは演奏されるべき音楽だと思う。
それじゃあ、ブラームスの交響曲はどうかというと、多分、日本の楽団とは余り相性が良くない。
ブラームスの交響曲は、やっぱり、フランス語圏のオーケストラが好いだろう、と思われる。
ブラームスの音楽に不可欠なのは、軽妙さ、明るい色彩、乾いた音だ。
そういう点では、バルカンのオーケストラも似つかわしい。
そんな楽団から導かれるブラームスに聴けるのは、多分、抽象絵画の様な、よく得体の知れない怪しい造形美と、楽天的な人生観。
ブラームスの音楽は、決定的に楽天的なものだと、私は思う。
どんな衣装を纏おうが、シューマンの様に深刻で、切実な人生観などありそうもない。
とても大人びた音楽だ。
オーケストラ・アンサンブル金沢のブラームスは、音色がとても和風だと思った。
旧き佳き日本の洋楽の音がする。
勿論、全く正反対の評価を受ける事の多いオーケストラだとは承知しているのだけれども、金聖響とのブラームスを聴いて抱くのは、諸々の新しさよりも、寧ろ、恐らくは意思に反して随所に薫る懐かしさだ。
そして、ブラームスの楽天的で不可思議な音楽話術を、思いの外、鮮烈に響かせていて心地好かった。
同時に、隅々まで管理の目が行き届いている様な、清潔感、居心地の悪さも孕んでいて、それこそは、この楽団の最たる個性であるものの筈だから、如何にもらしいブラームスである。
やっぱり、ブラームスは、あんまり苔むさない方が、私は好きだ。
内に秘められたエネルギーが、十全に放出されない事で蓄積される重厚感も、やっぱり、郷愁を誘う日本の音。
率直に言って、シューマンこそ聴きたい音だった。
ブラームスの交響楽に、人情を求める向きには、あんまり向かない演奏だともおもった。
人情よりも意志の人、金聖響の才覚には、そんなストイックさがありそうだ。
勿論、おおらかでもないし、厳粛でもない。
もっと気楽に、ゲーム感覚で楽しむべきブラームス。
それこそは、当世に等身大の、ブラームスのあるべき姿でもある。
その点では、四番交響曲が、取り分け、身に染みるものがあって、ブラームスの音楽の、未来志向性に胸が熱くなる。
そもそも、このラスト・シンフォニーは、やたらと回顧的に描かれる節がある。
実際、そういう理屈の通る音楽でもあるそうだ。
けれども、金さんとOEKの演奏は、言うなれば、古民家カフェみたいなものだ。
旧い装いで、新しい試みに挑む、野心家の音がする。
造られた懐かしさ。
それは、飼い慣らされた自然の延長線上にある、飼い慣らされた歴史とも限らない、利便社会の極北に肉薄する熱情の様にも思われた。
こういうアプローチは、多分、オリジナリティーというよりもファッションだから、誰が欠けようが、演ずる役者には事欠くまい。
だから、とても、見事に役割を演じきった人のレコードとして、このブラームスを刻もうかと思う。
ブラームスの交響曲は、久しく聴かずにいた。
けれども、聴けば、やっぱりいい曲だ。
今度は、アンセルメ辺りで、聴いてみようと思う。
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