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置き土産【掌編小説】

 理由のない希死念慮に悩まされている。自死というのは他の選択肢が潰えたときの最終手段であって、私のような普通に生きていられる身分の人間が考えるようなことではないはずなのに。
 けれどもなお自死という考えが頭の中をうろつくのは、おそらく私が平凡すぎる、あるいは私が、ある一点において正統でない考えを抱いてしまっているということなのだろう。
 私の生活には、これといった楽しみがない。なにかを楽しみと見做す力がない、といった方が正確だろうか。
 決して無趣味なのではない。アパートの自室では手隙なときに、実家から持ってきたウクレレを迷惑にならないようにそれはもう控えめに弾くことがあるから、それを趣味と呼ぶならそうなのだと思う。
 なんだ、結構な趣味があるではないかと思わずにはいられないだろうが、これは実際のところ、そこまで明るい意味を持っていない。ほんとうに手隙なものだから、なにか手を埋めるものを探していたというだけで、実際は己の意識を「今この瞬間」にもっていける作業であればなんでもいい。なにより手隙のままでは希死念慮が割を占めてしまっていけないのだ。
 こういう趣味は無駄に上達だけしているみたいで、だからといって表に出るのは苦手だから、他人に披露することもない。ずっと自分の中にしまっておく能力だと思っている。
 これは、生きる理由になるものではない。もちろん、生きる理由というのは死ぬ理由と対峙するものであって、つまり死を望んだときに初めてその有無を確認する必要があるものだ。けれど、生きる理由なしで生き続けるのはとてもつらいことだ。つらい思いをするのは、誰だって嫌だろう。
 他に生きる理由があるかといえば、それも無いのだった。たとえば家族はどうかと問われても、私はあいにく独り身だし、父は既に他界しており、母はここ二年ほど病床に伏している。いつまで持つか分からない。その不安は当然ある。けれどもそれは、生きる理由にはならなかった。本来ならそれは、死ねない理由にはなるのだろうけれど、私の場合は、この世に、この人生に頓着がなさ過ぎるあまり、そういった命のつながりというのはそれほど重みを持たない絆に過ぎなかった。母の微かな命は、死ねない理由にさえ、ならないのだ。
 生への頓着が薄いというのは、とても危険なことだ。それはつまり、死への抵抗も少ないということである。生きる理由がなければ、死ぬ理由がそう強くなくてもぷつりと死んでしまうことがある。生の渇望は、つまり自らの命に対する責任感でもあるし、死の恐怖でもある。
 私は、生きる理由も死ぬ理由も抱えていない。理由のない希死念慮は、ここから生まれているらしかった。

 今日も死なないように列車を乗り継ぐと、うだつの上がらない地方都市の外れに佇むこのこぢんまりとしたオフィスビルの入り口に立つ。見上げる。この建物の中には、生を望むたくさんの人間がひしめき働いているのだ。もちろん私にとっては、仕事も生きる理由にはならない。
 社内にさして交友の深い友人もいない。かといってそれを悲観することもなく、総合すれば苦痛も楽しみもない社会人生活と言えるだろう。
 小さくため息をつくような気持ちで退社すると、朝と同じように列車に揺られ、これまた田舎臭いアパートへと帰る。すると、隣人の大学生がおめかしをして生き生きと出掛けていくところだった。どこに行くあてがあるのだろうか。軽く会釈をして、深呼吸してからドアノブに手をかける。ひらく。薄暗い。電気を付けても、なお拭えない薄暗さがある。
 小汚いワンルームでウクレレを弾く。ここまでウクレレに似つかわしくない人物と居場所もないだろう。でも弾く。仕事に関わる勉強は、また後にした。
 高校生の頃から病気のように弾き続けている『アロハ・オエ』が三周目に入ったところで、携帯が鳴った。病院からの電話だ。嫌な予感がするまでもなく、それは的中したのだった。

 まだ母の危篤を嫌な予感として処理できるだけ、私の精神は正気の域を出ない。そして言い添えるならば、大慌てで病院への移動手段を考え、汗だくになって病院の階段を上ったということも、私という存在がまだ正気のなかにある証左といえよう。私はまだ、死んでいない。
 病室のドアを力尽くでこじ開けるようにひらくと、医者と看護師二人が、一瞬驚いた後、光のない目でこちらを見た。まるで死んでいるかのようだった。
 そして、母は死んでいた。

 親の死に目に会えないのは二度目だった。今度も、いや今度はさらに、大粒の涙がこぼれて止まらなかった。母は死んだ。死んだのだ。心の中で何度も復唱した。母は死んでしまったのだ。
 ふと、母に関するあらゆる記憶がよみがえってきた。幼い頃、カレーの人参を残したら母がヒステリーを起こして怒ってしまったこと。小学校の入学式で、母から離れられず、周りが一人で座っている中特別に隣に座ってもらったこと。両親とピクニックに行ったとき、私がこんぶのおにぎりを野原に落として、母に大笑いされたこと。読書感想文の宿題を母に肩代わりしてもらったこと。中学で不登校になったとき、母がいつも自室へ様子を見に来て気遣ってくれたこと。なんとか公立の高校に進学して、校門で写真を撮ったとき、母が今まで見たこともないくらいに大泣きしてしまったこと。趣味に飢えていた私に、ウクレレを買い与えてくれたこと。大失恋をした私を、母が身の上話で慰めてくれたこと。大学受験に失敗した私を、母が叱責もせずに励ましてくれたこと。母の日にカーネーションを渡したら、あんたは勉強をしろと注意を受けたこと。一浪して受かった大学の合格通知を母に見せたら、四年前よりも大泣きしてしまったこと。一人暮らしを始めた後も、手紙と一緒に米の仕送りをしてくれたこと。それに頭が上がらないほど助けられていたこと。病床の母が、視線上の壁に飾ったハワイの夕暮れの写真を眺めていたこと。
 私はそうしてついに、生きるということを知った。もとい、私は思い出した。あのころの、生きていた母と、生きていた私を。
 母はこと切れるその最後まで、私を助け、導いてくれた。私はとうとうそのことを理解した。そうしてこのとめどなく流れ出す涙の理由は次第に変化していった。

 意味の変わった『アロハ・オエ』を弾きながら、私は考えた。
 母に死人の枠を奪われた。私が座るはずだったその椅子に、母が座っている。
 それは、私の生きる理由になった。

 もうしばらく、生きていよう。

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