見出し画像

二元性を超える/”善”対”悪”の矛盾/第11章 世界を超越する

『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著P224~P240

二元性を超える:”相対するもの”という極性

見たところ”対極”のものをうまく超越するには、ふたつの違ったもの、あるいは相反する概念に見えるものは単に可能性のグラデーションにすぎず、知覚のひとつの基線に沿って移動するにしたがって、その特性を変えていくという事を理解すればよいのです。わたしたちはすでに、温度をモデルにして、一見すると”熱い”、”冷たい”という対極の概念を打ち壊しました。

言葉を促すために、心(マインド)は連続的なスケール上の点を選び、あらゆる測定値や特性をふたつの異なるグループに仕分けしてしまいます。そのため、わたしたちはそれらを、”対極”のものとして二元的に知覚し、それが対立の種となります。自然に目をやると、”対極”のものなどどこにもありません。それは単なる精神活動によるものであって、何の実体もないことがわかります。

条件が変化すれば、外観も変わります。低温では、水は固まり、氷と呼ばれるものになります。そして温まるにしたがって、液状である水になります。高温では沸騰し、気体や蒸気になります。さらに高温になると水は、水素と酸素という分離した気体になります。しかしわたしたちは、氷と気体は”対極”であるとか、水素と酸素が”対極”であるとは言いません。ラベル付けとは、せいぜい言語的な利便性を考えたもので、制限つきの、実用的で使い勝手のいい手法なのです。

上記の説明は明白でありきたりに聞こえるかもしれませんが、実際にはきわめて重要な意味を持っています。というのも、それは基本原理を示しており、二元性を生み出す知覚的な過りを解明することができるからです。よく考察してみることで、一見すると社会的には対極に見えるものが、行程にすぎないことがわかります。たとえば、貧富、持てる者と持たざる者、教養のある者とない者、健康と病、賢さと愚かさ、強さと弱さ、リベラルと保守などもそうです。

アメリカでは”貧しい”と見なされる状態が。他国では”非常に裕福”となることもあります。所有物が増えてくると、豊かさと貧しさの間に想像上の境界線が引かれます。これは、経済状態や政治的傾向に左右される恣意的な定義です。しかしそれは、長さが短さの、強さが弱さの対極ではないように、スケールのグラデーション上のどこかの点を表しているにすぎません。

感情はグラデーションのもうひとつの例であり、幸せは不幸せの対極ではありません。あらゆる感情にはさまざまなグラデーションがあります。愛は憎しみの対極ではなく、欲深さは寛容さの対極でもありません。感情を述べるには、その程度や判断基準を明らかにしなければなりません。たとえば、どの程度の不条理性が正気と狂気とを分けるのかというようなことです。

「真実」においては、対極のものなど存在しません。立ち位置は、単に恣意的な精神活動にすぎません。太陽光線がプリズムを介すると、光は色のスペクトルに分散します。赤外線は紫外線の「対極」であると定義するのは愚かなことです。

わたしたちが日々主観的に体験する感情は、わたしたちのいわゆる快楽原則という嗜好性に反応したものです。快楽原則は、脳の機能に生得的に備わっているもので、わたしたちが日頃何気なく口にする言葉は、自分の好き嫌いにかかわっています。そしてそれらは、一見すると対極のものとして社会に組み込まれていくのです。

”善”対”悪”の矛盾

善と悪という古典的な究極の対極を超越するためには、目に見える対極のものはすべて、ひとつのスケール上に沿った点の、恣意的なラベル付けの集まりから生じる幻想であると認識することが有効です。たとえば、人間の行動やふるまいや出来事における”好ましさ”のスケールを作るとすれば、最上点の「素晴らしい」から始まり、「好ましくない」、「嫌な」へと下降し、最終的には「恐ろしい」や「壊滅的」にまで行き着きます。

上記のスケールは、人々の好む結果や価値観(ビジネスの利益、農業生産、個人的な幸せ、品行など)に応じて、人間生活のあらゆる分野に適応できます。するとあらゆる出来事の結果は自動的に、どれほどこのましいかによって「 善」か「悪」にふるい分けられ、そのように名づけられます。このことから、”真理”とされているものは、コンテクスト(文脈/状況)に依存していることが確認できます。

伝統的な歴史上の宗教的視点を見てみると、神に背くこと(エデンの園)が悪のリストのトップに立ち、次に兄妹殺し(カインとアベル)、それから父殺し、母殺し、用事殺害や純潔を汚すことが続きます。リストはさらに、拷問、残忍性、奴隷化、騒乱、故殺、レイプ、人に対する暴行や攻撃へと続きます。次に、主権や財産、金銭、貴金属品に対する侵害、さらには、自由や尊厳、個人の選択などの人間的価値や、倫理観、道徳観、道徳的権利に対する侵害が続き、最後に感情的な侵害が来ます。

規則や法律や行動範規範の不明瞭さは、コンテクスト(文脈/状況)の不確実性を反映しています。コンテクスト(文脈/状況)そのものが非常に複雑で、しばしばあいまいで不特定的ですが、法学では侵害の重さのニュアンスを定義することを余儀なくされています。一見するとシンプルな、”正”と”不正”の定義でさえ、往々にして人間の最高の知性をもっても歯が立ちません。判別は、教育や年齢、IQ、成熟度と共に倫理観や地域、歴史的な要因など、相互に複雑に絡まりあった要素の処理結果を反映しています。

結果として、役人はやすやすと職責を果たすことができません。道徳観や倫理観は、立場によって移り変わり、この立場は歴史や文明の発展段階における、ある時点での社会の考え方を反映しています。研究室での小さな科学的発見が、余念なく調べつくした末の”有罪”判決を”無罪”に覆すことさえあります(DNA鑑定など)。

コンテクスト(文脈/状況)を定義するのがいかに複雑であるかを知ったとき、智慧は、軽口や軽率な発言、批判を避けるように忠告します。明らかに真実に見えることでさえも、より進歩した計算法でコンピューターがはじき出した単純な発見によって、次の瞬間には正反対のものになりかねないのです。

”真理”だと見なされているものが一秒おきに変動し、それに伴って、倫理や道徳観、善悪の判断基準さえもが揺らいでいるように見えます。たとえば近年の脳研究では、精神病質者(慢性的な常習犯)は、前頭葉に遺伝的な欠陥があることが証明されました。彼らは遺伝的に、経験から学んだり、満足感を得ることを後回しにしたり、長期的な目標のために目先の快楽をあきらめたりすることができません。わたしたちは遺伝的に障害のある人物を、悪人や犯罪者だと言って罰することができるでしょうか?女性の腕を抵抗できないように切断し、レイプ殺人を犯した有名な殺人犯が、十八年の服役後に釈放され、わずか二十四時間以内に別の女性をレイプして殺した例があります。この男は皮肉なことに、自分を釈放しないように嘆願していたといいます。彼は自分が同じことを繰り返すことを知っていたのです。

わたしたちはたいてい、非常に動物的なものを悪とします。つまり善と悪の暗黙のコンテクスト(文脈/状況)は、立ち位置を反映しており、人の生活や公益、あるいは霊的な価値観を支えるものはすべて善であり、これに反するものはすべて悪であるとラベル付けしているのです。

人間の条件を超えたものがどう人生に影響を与えるかという視点から、恣意的な善と悪のスケールを考察してみると、すべての道徳観や二元的な判断は、より大きなコンテクスト(文脈/状況)の中では崩壊します。人の生そのものは何の意見も見解も持っていません。それはただ”在る”のです。人生はいとも簡単にひとつのものから別のものに形を変え、そこには何の先天的な抵抗も反応もありません。形を変えるためにほんのわずかな反応の形跡を残すことさえありません。人間の生は光と同じで、先天的に無形であり、好みや抵抗、反応を超えているのです。

道徳的ジレンマは、悪は見る人の目の中にあるというイエス・キリストの教えを理解することによって解決します。しかし逆説的に、故意に罪を犯し、霊的な真理を踏みにじるような者には深刻な結果が待っています。霊的な成長とは、わたしたちに新たな責任とカルマ的な因果をもたらします。

キネシオロジーテストによれば、動物の生は一般的に無自覚で、”死んだ”としてもほとんどそれに気づかないようです。死後も、その生が途切れることなくエーテル体となって継続しているからです。確かに動物は、肉体という形に対して無頓着です。ですから、ハエは叩かれてもエーテル体となってそのまま飛び続け、その変化に気づくことさえありません。夢見る猫と犬は、夢の世界と、体験的な現実の世界の区別がつかないようです。そして、そのいずれかに価値を置くこともありません。

生にとって死が可能であるはずがありません。影が光を殺すはずがないのと同じことです。同様に、真理が虚偽によって損じられたり、否定されたりすることはありません。ただその表現が誤解されたり、不正確に伝えられたりするのです。生命や神、「真理」、「真実の十全性」に対極のものなど存在しません。

人間の意識が知覚する善悪の概念の起源を分析すると、長年考え続けられた次のような問いの答えを理解することができます。-「どうして善なる神が悪を含む世界を創ったのか?」。当然のことながら、その答えは、神はそのようなことはしていない、です。対極に見えるものというのは、知覚や立ち位置として人間の心の中だけに存在しているのです。

人の意識が成長するにしたがって、あらゆる善悪、価値判断の描写もその意識レベルを反映するようになりますが、これは測定可能で比較的予想がつくものです。そして意識が向上するにつれて、より高い道徳的、論理的、霊的な責任を引き受けることができるようになります。ある意識レベルにおける美徳が、別の意識レベルでは欠点になることもあります。親切心や配慮、赦しは、高いレベルにおいては重んじられますが、低いレベルではその対極である弱さや欠陥、過失と見なされます。同様にわたしたちは、コンテクスト(文脈/状況)が大幅にシフトすることによって、価値観が変わることも見てきました。たとえば、戦時中の行動規範は、平和なときのものとは異なります。あらゆる国々と文化が、長い時間の中で、友好関係を結んだり、敵対したりしてきました。十年来の同盟国が、次の十年には敵国となり、その繰り返しです。人間の生命と社会のそのときどきの現象は、コンテント(内容/中身)とコンテクスト(文脈/状況)、知覚の立ち位置の変化を反映し、それらはすべてそのときに浸透している測定可能な意識レベルの媒介となったり、鏡となったりします。

道徳観の二元性は、昔から文明化の過程で最も大きな争いの種となってきました。道徳は、どんな自然災害よりも多くの人々を殺しました。というのも、道徳は人間を憎しみや罪悪感、復讐、自殺行為へと分裂させてしまうからです。さらに、道徳はあらゆる誤った宗教戦争に礎となるイデオロギーを与え、宗教の旗の下で争いが繰り広げられます。しかし、それは完全に宗教のすべての大原則を犯し、無視する行為であることに変わりありません。迫害やテロは、表向きは神の名の下で行われています。

”天国”と”地獄”でさえも、対極のものではなく、かなり異なった霊的領域を表しているにすぎません。同じことが政治的なイデオロギーの中でも起こっていますー”共産主義”対”資本主義”、”全体主義”対”自由主義”、”共産主義”対”社会主義”などです。仮にわたしたちが、古くから世界で悪と呼ばれているものが何であるかを調査してみれば、それは悪ではなく、抽象化や蔑称、ラベル付けにすぎないことがわかります。悪という代わりに、わたしたちは原始的、幼稚、利己主義、自己陶酔的、自己中心的、無知という言葉で表現できる行動を目撃しますが、それらは憎しみを正当化するための否定や投影、被害妄想といった心理的な働きによって複雑化しているのです。

ほとんどの犯罪行為を見てみると、”悪”は精神異常が形となったものであり、幼稚な衝動や不合理性が行動に移されたものであることが容易にわかります。宗教や政治の行き過ぎた行為は、義憤から発生していますが、それによって個人の責任が排除されるように見えます。そしてその基本的な口実が、合理化されたいわゆる”道義”です。自我(エゴ)は、”道義”という虚栄心から行動することを愛します。驚くべきことに、調査してみると、国民や国家、文明は、簡単にプロパガンダに乗ってしまい、自らの命や財産、家族や子供さえも陳腐なスローガンのために捧げてしまいます。幼稚さのゆえに、未熟な精神は外側に権威を求めます。そして、その権威も民衆煽動に踊らされた世論の合意を反映しているにすぎません。本当の欠陥は、意識が未熟であることに加え、真偽を識別することができない心(マインド)の生得的な欠陥としてより明確に認識することができます。

問題の核心にせまるには、信条の母体や礎になっているものが意志であると知ることです。宣伝家は、自我(エゴ)に感情的な報酬を経験させるために、民衆が喜んでうそを信じることを実によく知っています。人は密かに、”正義の怒り”、憎しみ、自己憐憫がもたらす快楽を楽しんでいるのです。そのうちにわたしたちはそれを”誘惑”と呼ぶようになり、誘惑は、”内面のここ”にあるのではなく、”外側のあそこ”にあると見なすようになりました。

誘惑は内側から起こります。それはたとえ小さな好奇心や欲求であっても、自我(エゴ)の衝動を満たしたり、自我(エゴ)に報いるという経験を欲しています。自我(エゴ)は密かなスリル、高揚、あるいは束の間の自己充足感を得たいのです。そのために、”殺人をするのがどのような気分か知りたかった”という理由で、クラスメイトを殺してしまいます。ここからも、誘惑の所在は自我(エゴ)自身の中にあることがわかります。外的な世界はただ、口実や魅力的な刺激や機会を提供しているにすぎません。あらゆる自己責任、罪悪感、咎めは、問題の根源を「彼ら」や「過去」といった外的な世界に投影することによって緩和されてしまいます。

考えの背後に”考える人”や、行動の背後に”行動する人”がいないように、内的な”誘惑する人”など存在しません。自我(エゴ)は、”外側”に存在する悪が、何も知らない無邪気な自我(エゴ)を、不意をついて誘惑の罠に陥れようとしているように見せかけたいのです。本当の誘惑者は、自我(エゴ)の獲得欲です。それが感覚的なもの、興奮、あるいは利益、特権、他者への支配であろうと変わりありません。

上記の真理を理解することによって、わたしたちは罪悪感と憎悪の枷(かせ)から解き放たれます。そして、罪悪感や憎しみこそ、善と悪という、アダムとイブの寓話以来普及した古典的な二元論から発生していることが明らかになります。この悪は、自我(エゴ)自身の嗜好と抑圧された欲望を反映しています。人間は真偽を見分けることができないだけでなく、自我(エゴ)の誘惑の標的となるのです。

測定された意識のレベルは「愛」の臨在の度合いを反映します。温度計が熱の度合いを示すのと同じことです。それぞれのレベルのエネルギーフィールドは、先天的に備わった特性があり、その特性から識別することができます。各レベルは独特の文化を持っており、それぞれに指導者や象徴的な代表がいます。また、”成功”や”卓越”は、各レベルの基準や定義に沿って決まります。

全宇宙を超えた「至高」の無限なるパワーから、「非顕在」は「創造の光」とあらゆる生命として顕在します。創造の光の放射は、天国や天体の領域を通過して、地球に偉大なるアバターとして、また、聖者や覚醒した賢人として現れます。それから自らの生を、善と、苦からの解放のために捧げる献身的な人々がいます。次に、受け継いだ愛を条件付きで表現する人々がいます。さらに、知性と知識に献身する意識が起こります。そしてこの人類の世界は、大衆の意欲と社会性と、労働力の誠実さによって支えられているのです。

「愛」への献身が翳りを見せると、その分だけプライドや自己愛、怒りが優勢になります。自己中心性と利己的な自我(エゴ)が愛に取って代わり、世の中に闇が広がります。神を拒絶した結果として、エネルギーフィールドは愛をなくし、”低次のアストラル”となります。ここでは、ルシファー的、サタン的な存在が善や愛を敵として憎み、羨み、弱者を従え、破壊することを望みます。本当の悪とは、霊的な意志の選択の結果として起こるものであり、きわめて深刻な霊的、カルマ的な因果を招きます。最悪の場合は、悪事を働きたいがために極端な悪を選択するということもあります。それは、真正のデーモンを表します。

心理学的見地から悪を考察すると、ほとんどの場合が未熟な自我(エゴ)の動物的本能の幼児性の表れであり、自我(エゴ)はその衝動が外的な権威によって妨害されると怒り狂うという傾向にあります。同様の反抗的な激怒や自己陶酔的な反逆は、犯罪者や非行少年少女、主戦論者、清教徒的なモラリストに等しく見られ、どれも変わりありません。

悪を恐れるというのは、自分自身の衝動に対するコントロールを失うことを恐れているということです。ほとんどのヘロイン中毒者は、仲間の中で”腰抜け”だと思われたくないために一服したのがきっかけだと言います。けれども、そのほんの一服が生涯を麻薬浸けにするのに充分であることを思い知ることになります。中毒は、麻薬そのものに対してではなく、人間としての経験のすべてを超える陶酔感に対して、そうなるのです。中毒とは、未熟さと否認から生まれた心理的、社会的、生理学的現象です。

霊的な探究者は、あらゆる立ち位置やものの見方から自分を切り離し、より高い目的のために一時的な自我(エゴ)の満足感を進んで放棄することが賢明です。人類の歴史は、大衆の集団的な自我(エゴ)が織りなすドラマであり、そのうちのほとんどの人々が統合のレベルを下回っています。

Q:上記のことは、ラマナ・マハルシの教えを理解するのに役立ちます。彼は、世界を救おうとしても無駄である、なぜならば、あなたの知覚している世界は存在しないからだ、と述べています。マハルシは世界を神に明け渡し、代わりに自己探究に集中することを勧めています。

A:ラマナ・マハルシは、世界に現れ出てくるものは、二元的な知覚と自我(エゴ)の生得的なメカニズムの結果であることを明確に知っていたのです。この世界の中でわたしたちが実際に見るものは、すべて差異と好みです。あなたが森を眺めたとすれば、そこには大きな木もあれば、小さな木もあります。曲がった木も、ねじれた木もあるでしょう。森の中に分け入って、折れ曲がった木を全部まっすぐにしようとしても何の意味もありません。折れ曲がった木にも、今にも倒れ落ちそうな木にも、何の問題もないのですから。

Q:覚醒した聖者はカルマを超越したのでしょうか?

A:はい。ただし、それは自我(エゴ)から生まれた個人のカルマという意味においてです。存在するものすべては、全宇宙と「創造」における総括的なカルマのパターンに包含されています。万物は、「自己」として「神の臨在」の中に存在します。万物は、存在しているかぎり、神によって創られたという”カルマ”から逃れることはできません。”神の真実”の基本的なカルマは、「顕在」の究極のコンテクスト(文脈/状況)を創っています。

意識の進化の可能性は、人がカルマ的に継承したものです。それは宇宙的なものであり、個人的なものではありません。あなたは選択する自由を与えられ、神を拒否する自由も与えられました。低次のアストラル領域は、神によって創られたのではなく、それ自身の選択によって造られたのです。

タンポポの種は空気中に漂い、その行き先は種の形として吹く風の相互作用によって決まります。このタンポポの種のように、人間は肉体を与えられましたが、異なるのは、人間には心(マインド)と霊(スピリット)という舵があり、自分で行き先を決め、責任を取ることができるという点です。しかしつい最近まで、人は舵を持ってはいても、コンパスを持っておらず、無知さゆえに責任を取ることができませんでした。人間は太古より神に従順であれと教えられてきたにもかかわらず、神とはどんな存在でどのようなものであるかを知りませんでした。そして、何世紀にもわたって、霊的な真理はすっかり歪められ、神に最も献身的な人々でさえも、誤った信念に惑わされ、神を称え、喜ばすために、罪のない子供や民衆を生け贄にするという極端な行動をとっていました。

わたしたちは”悪”という言葉を口にする必要がありません。それは、感情を刺激する言葉です。その代わりに、自己陶酔的な利己主義、自我(エゴ)の肥大、無知、集団ヒステリー、動物的な衝動による精神病質者/犯罪的行動化などと描写するほうが適切です。これらの行為は、愛の不在によって特徴づけられます。

Q:そうした人類の惨事に対してどのように距離を置くことができますか?

A:より広いコンテクスト(文脈/状況)を持つことによって、より公平な視点を持つことができます。人間の意識は、動物から始まり、幼児から好奇心旺盛な若者、そして成熟した大人へと成長していきます。しかし、新人類たる「ホモ・スピリタス」まで成長することは、ごく稀と言えるでしょう。数千年も前から、霊的なインスピレーションを得た才能ある個々人やグループが存在していたにもかかわらず、その数が伸びることはなく、彼らの明らかな影響力は反対勢力や歪曲によって制限され、損なわれてきました。わたしたちは人生の盛衰を変動として眺めることができ、それに蔑視的なラベル付けをする必要はありません。人生は最高の学校なのです。

立ち位置から離脱することによって(特に、ラベル付けから起こる立ち位置)、わたしたちは平安と自由と安心を得ることができます。より大きな平安は、コンテント(内容/中身)ではなく、人生のコンテクスト(文脈/状況)に目を向けることによってもたらされます。というのも、コンテント(内容/中身)は自我(エゴ)同士がぶつかり合うゲームボードにすぎないからです。このように人生に対し、より大らかに臨むことで、さらなる慈悲心が生まれ、世界に振り回されることもなくなります。

常に、自我(エゴ)/心(マインド)は世界を経験しているのではなく、その知覚を経験しているのだということを覚えておくとよいでしょう。メディアは感情と感覚に巧みに働きかけ、イメージや言葉を利用して、感傷や憤りを誘発したり、猥褻(わいせつ)な好奇心を満足させたりします。しかし、ありのままを直視することによって、反応の誘いを退けることができます。すべての人生に盛衰があります。誰もが生まれ、苦しみ、死んでいきます。幸せもあれば、悲しみもあり、災難もあれば成功もあり、上昇に等しく下降もあります。株式市場も上下します。病気や事故も来ては去ります。人生というカルマのダンスは、宇宙のカルマ劇場で立ち現れるのです。

人生に対する反応はすべて主観的なものです。耐えられないようなひどい経験も、楽しかったり、悲しかったり、よかったり、悪かったりするようなことも、実際は何ひとつとして起こっていないのです。ですから、厄難、災害がなぜ”起こる”のか、罪なき人が”あんな目に遭うなんて”、”なんてひどい”、”誰かのせいに違いない”などというような見方をするのは無意味です。より大きな視点を持つことで、わたしたちは人生のコンテント(内容/中身)やコンテクスト(文脈/状況)にかき乱されることがなくなります。そのためには、価値判断や期待、”過敏さ”を手放さなければなりません。

物事の潜在的可能性は、条件(環境)を変更することによって、修正することができます。その現象や物事の傾向のバランスに影響を与えることによって、いかようにでも変えられるのです。たとえば、ある山火事に遭遇したい賢い目撃者が、新聞記事の中で、「火事そのものはよくも悪くもない。それは、地域の状況を反映する」と述べています(Paxon,2002)。住民にとっては”悪い”ことでも、森林にとっては長期的に見て健全で自然で”よい”こともあるのです。

「真実」においては、出来事などありません。始まりも終わりもないのです。背景はいつも静かで静止していて、映画によって乱されることはありません。生命の一体性は、人の目には多様性として知覚されます。世界の出来事をリアルに見せているのは、「自己の輝き」です。映画そのものには、知覚されるような現実は本質的に存在していません。現実感とは、実際には完全に主観的な意識の内にあります。仮に、独立した、客観的実在があるとしても、それを知覚するのは人間の内的な主観性なのです。

Q:では、神のみが唯一の「真実」なのでしょうか?

A:人は、神をただ知るだけで、証明することができません。主観性を超えてしまえば、世界など存在しません。神の臨在がなければ、何も知ったり、経験したりすることはできません。あなた自身の存在も含めてです。主観性としての存在は完璧かつ完全で、完結しています。そして、それが喜びの源です。「自己」は、「無限なる<わたし>」としての「存在の源」の「臨在」なのです。

Q:主観的な経験、あるいは、「十全性」の実現とはどういう感覚でしょうか?

A:それは常にそこにある状態への気づきです。期待や後悔、予測や支配欲を生じさせていた連綿と続く経験の目新しさが消滅します。「存在としての存在」は完璧かつ完全です。必要はすでに満たされています。獲得したり失ったりするものではなく、すべてが等しく価値があります。それは、まるで”映画に行くこと自体”が楽しいから、どんな映画も等しく楽しいのと同じようなことです。映画の内容自体には関係ないのです。

好みが消滅すると、すべての形に等しい価値が見えてきます。共通の価値は、それぞれが形を持っているということです。雑草もダイアモンドも変わりありません。見た目は違うかもしれませんが、生得的な価値は変わりません。その美は等しいのです。なぜなら、あらゆる形には美が内在しているからです。存在を与えられたということにおいて、すべては等しいのです。いかなるものも、何かに”なる”過程にはありません。すでに完結した、完璧なアイデンティティを持っています。存在が、不完全であるはずがないのです。

”瞬間”とは錯覚であり、独立的な実在ではありません。世界に”瞬間”はありません。「創造」の展開は継続的です。不完全から完全に移行するのではなく、完全から完全へと続きます。ある瞬間は、完全に”これ”として現れ、次の瞬間には完全に”あれ”として現れるのです。

すべてのものは時間の外に存在し、時間の内にはいません。ですから、時間に沿って存在することもありませんし、時間の制限を受けてもいません。時間とは、知覚の方法にすぎません。そこに椅子があれば、あなたは椅子を見るのであって、時間を見るのではありません。同じく、そこに時計があれば、あなたは変化を見るのであって、時間をみるのではありません。時間とは抽象的な概念であり、わたしたちはそれを観察可能な対象に投影しているのです。

わたしたちが「時間」と呼ぶものの性質を描写するとすれば、それは静止したものです。出来事は動いているように見えますが、時間は静止したままです。時間は存在しませんし、変化することも、継続することもありません。それはただ、静止しているのです。測定法は変わりますし、惑星も動きますが、空間と時間のコンテクスト(文脈/状況)はただじっとしています。時間という独立的存在などありませんし、静止しているので、それは”ここ”や”今”を常に超えています。時間は変化することがありません。というのも、変化するものがないからです。変化するためには形がいります。時間には形がありません。

時間とは、測定の概念であり、概念は頭の中の現象でしかありません。人間の脳がなければ、時間という概念さえも存在しません。心(マインド)は、万物は時間と共に存在していると思い込んでいますが、それは心のゲームにすぎません。

時間が存在していないとすれば、”場所”という概念はどうでしょうか。わたしたちは位置関係を見ていますが、本当は”場所”などというものは存在しません。”場所”は独立的存在ではなく、これも精神活動の産物にすぎません。

”空間”も概念です。心は、何かがある場所に存在するならば、そこには空間があるはずだとイメージを働かせます。けれども、そこには”場所”もなければ、”どこ”や”ここ”、”そこ”もありません。もちろん、”いつ”もありません。存在は、形や時間、空間、場所から独立しているのです。

”今”も概念です。あるのは永遠だけであり、永遠とは、「自己」を恒久性として感じる/知ることであり、瞬間的な体験としてはとらえられません。同じことが、線形的な時間軸における場所やエピソードにも言えるわけです。非線形の「真実」においては、瞬間や「今」として認識される一瞬を位置づける時間軸は存在しないのです。

ここまでです。

時間、場所、空間、今という、概念のことを、説明できるようになるには、あるのは永遠だけであり、永遠とは、「自己」を恒久性として感じる/知ることであり、瞬間的な体験としてはとらえられません。を、意識し続けることで気づくことがあるんだろうなと思いました。

2023/7/24 KIN171時点で、思っていることをお友達に伝えました。

真実度999の情報を繰り返し学習していってわかったことは、自分&他人の動物脳への慈悲が大切であることと、人間はというか、動物脳は無知であるから、心(マインド)は真偽を見分けられないから、戦争も、さまざまな社会問題も無知も貧困もおこしてしまうという機能構造の前提を知っておくことと思ってるよ。その立ち位置から物事を見ると、〇〇さんもそうだけど、みんな主観でものごとを判断してる事がみえるので、それが意識のグラデーションであり、慈悲でみることで、動物脳に同一化されにくくなるというしくみね。すべての出来事は、それぞれが気づくために必然で起きているので、外側のせいではなく、すべて自分の意識の選択だとおもってるよ。

LINEより

人類生命学↓

今回の記事が、135本目となります。真実度999の情報を、愛が基盤の気づいている心の立ち位置で見ることが出来る人が増えますように。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?