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耳で聴いて学習|第18章「無心(ノー・マインド)」(中編)|誰でも、怒りや犠牲者になること、あるいは、誤解されたり不当な評価を受けたりすることから、密かな快楽を得ています。

『I<わたし>真実と主観性 デヴィッドRホーキンズ著』P382~P392

第18章「無心(ノー・マインド)」(中編)

【Q:自我(エゴ)を解くためのシンプルな方法はありますか?】

A:はい。内面に誠実に沈潜すると、自我(エゴ)の反応を支えているのは、そこから得られる喜びだということが明らかになります。その内的な満足感は、自己憐憫や怒り、憤怒、嫌悪、プライド、罪悪感、怖れなどから得られる報酬なのです。奇妙なことに内的な快楽は、これらの感情に燃料を与え、それを増強させています。こうした影響を解くためには、疑わしい内面の密かな快楽を進んで神に明け渡し、手放すことです。そして、喜びや快楽、幸福感は神からのみ求めることです。

はじめのうちは、心(マインド)は苦痛から密かな快楽を得ていることを否定するかもしれませんが、厳しく自己分析することで、コンテント(内容/中身)にしがみついているのは、その立ち位置から”甘い汁”を得ているからだということがはっきりと見えてくるはずです。少し自分に正直になれば、すぐにこの事実を発見するでしょう。

誰でも、怒りや犠牲者になること、あるいは、誤解されたり不当な評価を受けたりすることから、密かな快楽を得ています。また、社会や法律は、法の規定や金銭的報酬によって、さらにそれを強化しています。わたしたちは、”気分を害されたり”、職場で”冷遇”されたり、”ストレス”をがまんしたり、”不快感”を感じることなどで補償金を得られるのです。

こうした報酬に価値がなくなれば、自然と感情も消滅します。何らかの目的を果たしている間だけ、この仕組みが持続しているのです。この”自我(エゴ)の甘い汁”を放棄すると、内なる平安が訪れます。

この自我(エゴ)のゲームには密かな虚栄心が付随していることに気がつくでしょう。あたかも、世の不公平さの哀れな犠牲者顔をして苦しみを訴えれば訴えるほど、自我(エゴ)が補強されるかのようです。実際に自我(エゴ)は、自己を密かにドラマティックに仕立て上げ、そこから報酬を得るという苦闘を心の底で楽しんでいます。自我(エゴ)は自問自答しながら、自己増殖しているのです。

自我(エゴ)を解くには、感情の大げさな演出や、正当化のための繰り返し使われる陳腐な物語と共に、この報酬ゲームを進んで放棄することです。実は自我(エゴ)は、不快さから甘い汁を吸っているということを忘れてはなりません。「義憤」ほど大きな快楽を得られるものはありません。自我(エゴ)は、そんな大きな報酬を得られるおいしい立ち位置をこよなく”愛して”いるのです。

被害者的立場から自我(エゴ)が得られるふたつ目の利点は、たとえどんなに過激な行動を起こしても、その言い訳ができるという点です。自我(エゴ)は滑稽です。それがどんな痛みや苦しみをもたらそうと、あらゆるネガティブな感情に喜んで身を投じます。しかし、こうした内密の非統合的な利益の代償として、全体的に羞恥心や自己卑下、罪の意識に覆われることになります。ポジティブな行動を起こすことを頑なに拒否し続ける人を思い起こしてみてください。彼らは”頑固に”周囲の援助を拒みます。たとえそれが無料で、大きく門戸が開かれているとしても変わりありません。彼らがよく使う防衛手段は、下手な言い逃れをすることです。問題があまりにも深刻化した場合は、その家族や社会が救済のためにやや”手荒な”手段を使ってでも介入せざるを得ないような状況をつくります。

自我(エゴ)の中毒や生存は、ネガティブ性から得られる秘密の快楽が基盤になっています。はじめにその正体をしっかりと認識し、罪悪感や羞恥心をもたずに受け止めることで、ようやく放棄することができます。わたしたちは、自我(エゴ)は誰もが受け継いでいるもので、ひとりでに行動を起こす、完全に非個人的な機能だということをしっかりと認識する必要があります。

【Q:どうしてわたしたちは執拗なまでにそのような動機を持つのでしょうか?】

A:それは、それが真実の愛と神の歪んだ代用品だからです。その実態をよく見つめてみると、それが自己陶酔的な循環型の自己報酬システムだということがわかります。けれども、自分が主導者であるという責任を引き受けていないために、非統合的です。自我(エゴ)は”わたし”ではないにしても、その責任は自分自身にあります。

社会で繰り広げられる自我(エゴ)のゲームには、あらゆる人間関係を加害者と被害者に分ける分断線があり、その線引きは気ままに変動します。このゲームは子供の遊び場から始まりますが、金銭獲得の欲とメディアによる増幅によって、今日でも最大の関心事になっています。

【Q:今の説明で明確になりました。】

A:自我(エゴ)は意図的に巧妙な仕掛けを持っていますが、最後には自滅する構造を示しているにすぎません。自我(エゴ)は仕掛けによって一時的に拡張するかもしれませんが、統合性を失うために、パワーをなくしてしまいます。自我(エゴ)は脆弱さからゲームを仕掛けているのです。「自分が何をしたのかよく見てみろ」というゲームは、自尊心を高める目的で行うのですが、動機が「仕返し」をすることにあるので、結局は失敗してしまいます。高い見地から見れば、ゲーム全体は「だからどうしたのですか?」という類のものなのです。

【Q:どうしてこのような自滅的な行動に執着するのでしょうか?】

A:自我(エゴ)は密かな自己報酬の源が暴かれそうになると、怒りで反応します。その支配構造が脅威にさらされると、殺人行為に発展しかねないほど激怒する場合もあります。自我(エゴ)はやっとの思いで、密かな神の代用品を獲得し、短絡的な愛によって生きながらえているのです。ですから、それがどんなに惨めであっても、秘密の供給源を手放すはずがありません。自我(エゴ)は外面的には苦痛に対して抗議しているようですが、内実は大手を広げて歓迎しているのです。

【Q:これは、「自己」を実現するために支払わなければならない代償でしょうか?】

A:自我(エゴ)にとっては、自己報酬的な仕組みを放棄するのは損失に見えるでしょう。自我(エゴ)は神を信じていないので、生命を維持し、快楽を与えられるのは自分だけだと思っているのです。自我(エゴ)は神ではなく、独自のメカニズムを信頼しています。自我(エゴ)はほかに比較できる経験がないので、この誤りにしがみついて離れようとしません。ここから脱出できる唯一の道は、ほかによりよい道があるはずだと信じることです。心(マインド)が思うような幸せを得ることができず、自らの誤信という迷いから覚めたときに、はじめて霊的な真理に耳を傾け、それを探究することができます。そしてようやく、苦痛から絞り出した歪んだ快楽が、真の喜びの粗末な代用品にすぎないことに気づくのです。

【Q:すると、いわゆる霊性への興味の機が熟すときがやってくるのですね。】

A:人生のどこかの地点で、それがターニング・ポイントとなって訪れます。そのために数多くの輪廻転生を経なければならないとしても、失意と敗北が”底を打った”とき、絶望のどん底からわたしたちを救い出す内なる光が差し込みます。その地点に到達したら、自我(エゴ)の存命期間は残りわずかとなります。

【Q:どのような犠牲を払わなければならないのでしょうか?】

A:大きな飛躍は、自我(エゴ)を超えたところに喜びと幸福の源があることに気づくことです。すると、どうしたら霊的な目的を達成できるのかということに対する興味と好奇心が湧いてきます。次に、信念がわき起こり、それは信頼することと最終的に体験することによって支えられます。それから、情報や説明が得られ、それまで学んだことを実践する機会が与えられます。すべての障害を喜んで神に明け渡す献身的な姿勢に続き、招き入れることによって、霊的なエネルギーは高まります。自らの生命をも神に差し出すという姿勢は、喜びをもたらし、生命に新たな意味を与えます。気持ちも高揚し、より大きなコンテクスト(文脈/状況)の中で、人生により重大な意義と価値がもたらされます。すると、それが内的であろうと外的であろうと、ネガティブ性を支えるいかなる行為も慎むようになります。それが誤りだから控えるのではなく、単に無益だから注意を向けなくなるのです。神へと向かう旅路は、失意と疑念から始まりますが、それが次第に確信へと変わっていきます。このように、道のりは非常にシンプルです。

【Q:[神に明け渡すこと]の本当の意味は何ですか?】

A:それはコントロールと、自我(エゴ)の立ち位置から得られる密かな満足感を放棄するということです。ただ愛と神のみに向かいますが、それこそが生命と喜びの源なのです。わたしたちは、あらゆる瞬間にこのことを選択することができます。最終的にそれを選択することができれば、報酬は甚大です。招き入れることによって、霊的な気づきは道を照らします。その鍵となるのは、あなたの意欲です。

【Q:すでに正しい道のりを進んでいる場合は別として、どうやって神を認識すればよいのですか?】

A:神の臨在の最初の兆候は、霊的な事柄に対する好奇心と興味が芽生えることです。これは、自我(エゴ)のダムにひびが入った証拠です。そして、霊的なゴールを求めて行動を起こしたり、霊的な情報を探し始めたりしている場合には、確実に神が人生に招き入れられています。

すべての障害を愛と神に明け渡したいという欲求が生まれたときには、神がすでに意欲という形の中に宿っています。そして、献身のレベルまで達すると、すでに優勢となった臨在によって自我(エゴ)は溶解し、道が照らされます。霊的な成長と発見には喜びが伴います。そして、この喜びこそが「自我(エゴ)」の輝きであり、瞬く間に明け渡された自我(エゴ)の立ち位置に取って代わります。一歩前進するたびに、霊的な直観力が高まります。自己が世界や自我(エゴ)に注目しなくなったとき、「自己」がそれまでもずっと源であったことを発見するのです。

【Q:自我(エゴ)の秘密の報酬のほかに明け渡すものはありますか?】

A:心(マインド)の幻想の正体を見抜き、心は本当は何も知らないということに気づいて下さい。これは謙虚さと呼ばれる姿勢で、謙虚さは、悟り、啓示、直観的な知っている状態への扉を開きます。

心は意味を求めるがゆえに、堂々巡りに陥り、意味に対する勝手な解釈にしか行き着きません。「真実」においては、意味のあるものなど何もなく、認識すべき特徴などありません。万物はただ創造されたままに在るだけであり、それだけで完全で完璧です。万物はただ在るだけで、目的を果たしているのです。万物はその本質と潜在的可能性を結実させています。存在するものすべてに唯一”求められていること”は、ただ”在る”ことです。一瞬一瞬の条件の下に定められた使命は、すでに完全に成就されています。それゆえ、今ある姿は、過去のすべての可能性を結実させたものです。万物は、あるべき姿のままに存在しています。本質が潜在的可能性を成就している様子を、それに対応する意識のレベルが観察しています。観察しているナノ秒間にも、変化しているものは何もありません。唯一変化しているのは、観察の視点です。変化とは、一連の知覚のプロセスを反映しているにすぎません。

人生は、一連の静止画像にたとえることができます。―子供の頃に見た紙芝居と同じです。すると、ひとつの謎が生まれます。動いているのは世界なのでしょうか、それとも心なのでしょうか?

【Q:では、不完全であることは不可能なのでしょうか?】

A:万物は、その絶対的な自己アイデンティティの中ではあるがままなのですが、知覚や立ち位置に偏向する自我(エゴ)の習性は、それを観察することをきわめて困難にしています。鉄板に付いたさびは、酸化過程を完璧に表現しています。湿気にさらされた鉄は、酸化鉄になります。ただ、それだけです。何かを”する”のではなく、ただそう”在る”だけです。一過性なのは、外見的な形だけです。

真実は永遠です。<わたし>の目にそれは明らかですが、個人的な自我(エゴ)である”わたし”には見えません。観察しているどの瞬間も、万物は常に完璧で完成しています。価値や意味は、心(マインド)が投影する装飾であり、特定の属性や特徴への好みに基づいています。野性的で自然な感じのクリスマスツリーが好きな人は、まっすぐなものよりもねじ曲がったツリーを好むのと同じことです。

【Q:わたしたちは幻想を超越することができるのでしょうか?】

A:心(マインド)にとっての現実はフィクションです。それがわかれば、心は最高権威者としての支配力を失います。自我(エゴ)の目には、人生は、好きから嫌いへ、恐怖から束の間の快楽へと常に移り変わる万華鏡のように映ります。自我(エゴ)は過大評価している立ち位置に身の安全を求めようとしますが、成熟するにしたがって、信頼できる揺るぎない特性を内面に探るようになります。しかし、霊的な指示と情報がなければ、どこを頼りにすればよいかわからず、ただ実利的な価値があるだけの基本的なサバイバル術に舞い戻るのがオチです。

【Q:心(マインド)を持たずにどのように生き残ること(サバイブ)ができるのでしょうか?】

A:心には、”考える心”と”気づいている心”があります。後者の気づきは自律的で、人生の状況をすべて包含しています。また、考えたり解明したりするのではなく、知っている状態を基盤にしています。言い換えれば、計算的ではなく、自発的かつ静かに機能します。

また、気づきは異なる作動原理を反映しており、よりグローバルで穏やかな反応を示します。つまり、全体像を認識したうえで、適切に応答します。気づいている心は、謙虚な立ち位置や価値判断に惑わされることも、狂信的行動に駆られることもありません。それは、穏やかで優しく、世の中のドラマに参加するよりは、観察することを好みます。気づいている心は、この世的な損益の観念に巻き込まれることはありません。このような世界とのつきあい方を、わたしたちは”ゆったり構えた”とか”達観した”スタイルと言います。自我(エゴ)の考える心が、「なんてひどい」と嘆いている状態を、気づきは人生の浮き沈みの一コマと見、結局はどれも変わらないことを理解しているのです。

【Q:それは、受動的な態度ではありませんか?】

A:自我(エゴ)にとって、平和は消極的で不活発に見えます。というのも、自我(エゴ)は支配したり、獲得したり、避けたりと、何かを”する”という観点から物事をとらえるからです。自我(エゴ)は高速道路をかけ抜け、制限速度をオーバーし、パトカーがいないかどうか警戒します。のろまなドライバーに苛立ち、呪いの言葉を吐きながら、背後にぴったりとくっつきます。そしてクラクションを鳴らし、カーブで追い越します。時間を打ち負かし、列に割り込みたいという衝動に駆られながら運転しているのです。前方にドライバーがいれば拳を振り上げ、恐ろしい復讐を誓います。こうした狼藉を働いている最中にも、仕事の戦略を練り、携帯電話を使い、ラジオを聞いています。

反対に気づいている心は、交通の流れに乗り、前方に割り込んでくる気の毒な魂に気持ちよく場所を譲ります。気づきが持つゆとりある観点は、他者にも向けられます。

【Q:そんなゆったりと構えた姿勢は無益ではないでしょうか?】

A:こうした姿勢は、行為ではなく全体像に視点を置きます。自我(エゴ)はフォース(ネガティブエネルギー)に頼りますが、霊(スピリット)はパワー(ポジティブエネルギー)の影響を受けます。気づきは、長い目で見れば、あなたが何をしたかではなく、あなたが誰であるか、そしてあなたがどのように成長したのかが重要であることを知っています。一方は、状況を過熱させ、一方は静めるのです。


何回でも聴いて、真実度999の情報を、腑に落としてください。非常に大切な所をもう一度復習で書いておきます。

【Q:[神に明け渡すこと]の本当の意味は何ですか?】

A:それはコントロールと、自我(エゴ)の立ち位置から得られる密かな満足感を放棄するということです。ただ愛と神のみに向かいますが、それこそが生命と喜びの源なのです。わたしたちは、あらゆる瞬間にこのことを選択することができます。最終的にそれを選択することができれば、報酬は甚大です。招き入れることによって、霊的な気づきは道を照らします。その鍵となるのは、あなたの意欲です。

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