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自己中心性は、その起源を動物界の中に見ることができ、人間の脳に引き継がれた動物脳の名残の働きと見なすことができます。

『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著 P296~298

第14章 考 察

こう‐さつ〔カウ‐〕【考察】 の解説
[名](スル)物事を明らかにするために、よく調べて考えをめぐらすこと。「深い―を加える」「日本人の社会意識について―する」

goo国語辞典

読む前に補足します。自己中心性は、いわゆる、我(が)が強い=自我(エゴ)が強い≒自分の利益しか考えていない≒自分に執着している。無自己とは、我(が)が無い、いわゆる、謙虚な立ち位置と捉えてください。

【Q:自我(エゴ)の核となっているのは自己中心性であるとよく言われますが、霊的な目標は自己中心性をなくす、つまり無自己であることです。これらは対極のものなのでしょうか?】

A:一見すると対極に見えるものは、二元性の幻想であり、立ち位置から自動的に生じるものです。行動の質を決めるのは意図です。自己中心性の意図は獲得することであり、その目的は生存にあります。けれども、自己をなくすことの目的は、与えることと奉仕することです。こうした相反する動機を考察するときに、わたしたちが回避しなければならないともうひとつの立ち位置は、自己中心性を悪や誤りとし、自己をなくすことを善や正義としてラベル付けをすることです。これらはただ意識の進化の過程の異なる段階を表す選択肢であるだけで、対極のものではありません。

自己中心性は、その起源を動物界の中に見ることができ、人間の脳に引き継がれた動物脳の名残の働きと見なすことができます。幼児の行動には、それが過剰に見られます。それは生存本能の一部であり、願望や欲求、食欲や生物学的欲動を満たすために機能しています。こうした欲動は、動物がそれを餌や水分、縄張り意識、所有物、交尾の相手などに向けるように、人間生活でも見られます。成人すると、こうした欲求は所有物や何らかの象徴的な報酬に向けられ、絶え間ない獲得と利潤の追求にまで拡大します。それが過剰になると、欲に目がくらんでいるとか強欲などと呼ばれ、動物界で言えば”群れの雄ボス”、あるいは”群れの雌ボス”の熾烈なポジション争いを見ることになります。

生理学的、心理学的観点から見て、生存と自尊心のための健全な利己主義がありますが、あらゆる行動が一事が万事自我(エゴ)に起因するものであれば、病的な自己陶酔性になってしまいます。自己中心性の基本前提は、「わたしは~が欲しい」です。この欲求は、異常なまでの渇望や中毒にまでエスカレートします。

一事(いちじ)が万事(ばんじ) の解説
わずか一つの物事から、他のすべてのことを推し量ることができる。一つの小さな事柄の調子が他のすべての場合に現れる。「彼のやることは―間が抜けている」

goo辞書

意識が進化するにつて、幼児は、生き延びるためには自我(エゴ)の欲求や仮定上の権利や期待が満たされなければならないという子供じみた幻想を手放すことを学びます。すると幼稚で自己陶酔的な自我(エゴ)は、赤ん坊と母親の関係のレベルから移動し、自らの成功と生存は、幼児性を脱して強調することにかかっていることを発見します。その結果として自我(エゴ)は、分かち合ったり、我慢したりすることを覚えて愛や称賛を得ます。この移行期間は、親が適切に責任をもってしつけをするという報奨制度によって成立します。こうしたしつけが十分になされなければ、幼児性は、それに伴う怒りや敵意、自己憐憫と共に尾を引くことになります。

自己憐憫 読み方:じこれんびん
自分で自分をかわいそうだと思うこと。自分に対して憐憫の情を抱く事。

実用日本語表現辞典

成熟とは、人が非線形的な領域における価値や愛から喜びを得ることを知ることです。すると、幸福とは外界から何かを獲得した結果得られるものではなく、内的な自己充実感であることを発見します。完全に成熟すると、何を持っているか、何をしたかではなく、自分自身がどのような状態にあるかということから喜びが生じるようになります。

幼児期の自我(エゴ)は、つかんだり確保したりすることで何かを獲得しようとします。しかしその後、業績(学校での優秀な成績など)や生産性、あるいは非線形次元での霊的な価値を満たすことによる内的な喜びを得ることを学びます。そして成長するにしたがってより自立的になり、他者を支配しようとすることがなくなります。

自己本位や自己中心性は非常に脆弱で、絶えず防御し、賛同と合意を求めます。しかし自我(エゴ)が成熟すればするほど、どんどん自立心が確立し、最終的に幸福感と安心感の源は内側にあることを学びます。この認識に至ると、霊的な目的が非常に重要になり、自らが統合的であるかどうかが幸せの基準になります。こうして意識が進化し、自分と神との関係を完成することが究極の目標となります。

はじめのうちは、神は”外側”にいると信じますが、そのうちに生命の源を”内側”にも同時に感じるようになり、最終的には「臨在」は、”外側”、”内側”のいかなる差異も超越した「存在するものすべて」である「自己」として立ち現れます。「至高」の存在は、内在的であると同時に超越的なのです。

「」で囲まれた自己、「自己」=本当の<わたし>として、使われてあります。”自己”は、動物脳(本能)=自我(エゴ)と一体化した本当ではない<わたし>として使ってあります。

わたしたちはこの意識の進化ー自我(エゴ)のパターンをたどるー神へと続く”自己”の道と呼ぶことができます。(自我(エゴ)の自己陶酔的な核心を段階的に捨て去ることで、真の幸福感や充実感、喜びの源は「自己」であることを発見する道です)。虚栄心や思い込みを含めた自我(エゴ)のさまざまな表現は、肥大化した表現であり、自らの考えは貴重で、立ち位置は正しく重要であるという思い込みにとらわれています。自己中心性は、虚栄心と幻想の基盤なのです。


復習します。本の言葉は、出来るだけまとめてあるので、一見とても難しく感じます。何回も何回も読んでます。

繰り返し霊的探究をしているのですが、人間は悩まなければ、平和で喜びで、ネガティブにならなくていいのに、「人間はなぜ悩むのか?」ということを思いました。ネットで、検索すると同じ問いをアップしている記事があるので、見ると気づきがあると思います。次の投稿で、「人間はなぜ悩むのか?」というテーマを、動物脳(本能)=自我(エゴ)と照らし合わせて、深堀りしてみたいと思います。

意識が進化する過程では、悩みは必然のような気がしますが、悩みを含むネガティブは人間の脳に引き継がれた動物脳の名残の働きと見なすことができるので、動物脳(本能)=自我(エゴ)の罠にはまらないようにする意識が大事だし、それをやる人が増えて、それを見ることで、気づいてマネできる人が出てきます。「生まれ持った真理」を啓蒙できていけば、愛が基盤の気づいている心の立ち位置の人が増えていくので、安心安全安寧の世界になっていきます。

それがいいと思いませんか?という投げかけを、繰り返し繰り返し、これからも続けたいと思います。今日はここまで。


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