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「名言との対話」2月23日。梁 啓超「わたしはいつもその時々に心のなか信じるものを示して、誠実かつ真剣に国民の叱正を請うたにすぎません」


梁 啓超(りょう けいちょう、リャン=チーチャオ 拼音: Liáng Qǐchāo、1873年2月23日〜1929年1月19日)は、中国近代のジャーナリスト、文学者、思想家、革命家、政治家、教育者、歴史学者、新法学者、社会運動家、書家兼「百科事典」の国師式人物。

中国広東省うまれ。清末〜中華民国初期に活躍した。17歳で科挙の郷試に合格し挙人となる。18歳で康有為に出会い、無用の旧学を葬り去ってくれたとし師とする。康有為と共に戊戌 の変法で活躍する。失敗して日本に亡命。保皇会を組織して「新民叢報」を発行し。立憲君主制を主張して孫文の中国同盟会と対立した。
39歳で帰国。中華民国時代には進歩党を結成。司法総長や財政総長を歴任。袁世凱 の帝位就任に反対して第3革命を援助し、第一次世界大戦後のパリ講和会議に出席した。
政界引退後は教育と著述に専念した。『中国歴史研究法』他多数の著書がある。
前々からこの人の名前を中国人留学生から聴いていた。その学生によれば「久恒先生は梁啓超だ」と不思議な言葉を何度か言われたので、興味を持っていたので、500ページを超す大著『梁啓超文集』(岩波文庫)を熱心に読んだ。

日本亡命の日々で「日本語が読めるようになったことで、思想が一変した」という。西洋の思想も含めて、日本語に翻訳された文献をむさぼり読んでおり、世界のことを以下の様に説明してくれる。。
個人の力で世界を動かした10人の人物をあげている。コペルニクス。ベーコン・デカルト。モンテスキュー。ルソー。フランクリン・ワット。アダム・スミス。ブルンチュリ。ダーヴィン。また、他国文明の新思想を移植した偉大な人物として、ヴォルテール、トルストイ、そして福沢諭吉をあげている。「福沢については、日本人が西学を知ったのは、福沢諭吉のおかげである」「維新改革の事業も、福沢の提言によるものが6、7割をしめる」と高い評価をしている。「世界を動かせなくとも、一国を左右することはできるだろう」と自国の学者たちを鼓舞している。
中国についての説明も興味深い。中国には国家はなかった。朝廷があっただけである。夏、商(殷)、周、秦、漢、魏、晋、宋、斉、梁、陳、隋、唐、宋、元、明、清は、朝廷に過ぎない。朝廷は公ではない、私である。王朝の名前しかなく、国名がない。中国、中華はといういい方は自尊自大で傲慢だ。
中国の地理。中国は5つに分ける。中国本土、新疆、青海・チベット、蒙古、満州。
孔教は「人はどうしたら人となれるか。人群(社会)をどのように群となりうるか、国家はどのようにして国となるのか、を教える」とし、世界に徳育を教える重要な教えだだという。宗教は専制的で雅量がないが、反対に孔教は寛大で自由があるとする。
小説という文芸を高く評価する。「一国の民を新しくしようとすれば、まず一国の小説を新しくしなければならない」「小説は文学の最上乗である」。
中国革命の二つの特色。西洋とは違って、私人の革命はあったが、団体の革命はなかった。野心の革命はあったが、自衛の革命はなかった。上等と下等の革命はあったが、中等の革命はなかった。中国の革命は全国が害を受け、利を享受するのは一部。革命が成就するまでの時間が長い。革命家と革命家の衝突がある。革命の時期は異族の侵入の時代でもある。改革「緩やかに、部分的に、正比例的に」、変革は「急激に、全体的に、反比例的に」と説明する。
日清戦争の敗北の原因は、学問と教育にあるとし、婦学(女子教育)が重要とした。そして 常に報界(ジャーナリズム)の中心にいた。清華大学教授、北京図書館館長をつとめるなど、知の巨人であった。

「およそ人の性質は、決して現在の境地に満足することはできない」。「わたしはいつもその時々に心のなか信じるものを示して、誠実かつ真剣に国民の叱正を請うたにすぎません」と語った。その時々の情勢に応じて、立場を変化させ、新しい論陣を張った。あるとき、「日本に住み、ヨーロッパ、日本の俗論に染まり、さかんに偏狭なる国家主義を唱えた」と自己批判的に生涯を総括してもいる。
近代思想の指導者・福沢諭吉とジャーナリズムの先駆者・徳富蘇峰を合わせたような人物との印象を持った。留学生のいうように私と似ているなどとは決して思わないが、私にとっても興味深い人物であることは間違いない。

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