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「名言との対話」8月12日。一万田尚登「一かどの人間になっているかの錯覚を無意識にせよ早く起こしてはならぬ。それは、既知数になることである」

一万田尚登(いちまだひさと、1893年明治26年)8月12日 - 1984年昭和59年)1月22日)は日本の銀行家、政治家。享年90。

大分市出身。大分中学、第五高等学校、東京帝大法学部を卒業し、1918年に日本銀行に入行。1944年理事。1946年、総裁。1951年、サンフランシスコ平和条約日本全権委員。1954年大蔵大臣(第一次鳩山内閣)。1955年、衆議院議員に初当選。1955年、大蔵大臣(第二次鳩山内閣、第三次鳩山内閣)。1957年大蔵大臣(第一次岸改造内閣)。

孫の井上素彦の『非常時の男 一万田尚登の決断力』(財界研究所)を読んだ。身近な肉親の観察や、本人の感慨や言葉などが記されており、興味深く読んだ。

井上準之助蔵相を尊敬していた一万田によれば、井上は金本位制により軍事予算の膨張を阻止しようとした。日本を戦争にもっていかないようにしたのだ。青年将校に日本がつぶされないように、軍事予算の無制限の膨張を抑え、平和を守るためであった。この真意を口にすることはできなかったのである。

GHQの占領時代にマッカーサーにモノが言えるのは吉田茂と一万田だった。マッカーサーが「日本の統計がいい加減で困る」というのに対し、吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったら、無茶な戦争などいたしません。また統計通りだったら、日本の勝ち戦だった筈です」と答えて、相手は笑いだした。これは世界的な名言だろう。一万田は吉田を尊敬していた。

聖徳太子をお札の顔とする案には天皇家の一族であるとしてGHQは反対したが、一万田は「十七条の憲法」に「和を以って貴しとなす」とあるように、平和主義者であるとして押し通している。戦後の難しい時期に金融政策で日本経済を強力なリーダーシップで推し進めたために、一万田は「法王」と呼ばれている。

日銀総裁を辞任したあと、首席全権が吉田茂であったサンフランシスコ平和条約の全権委員の役も果たしている。その3年後には鳩山一郎の第一次、第二次内閣の大蔵大臣となった。

そして岸信介改造内閣の大蔵大臣にも就任している。この本には1957年7月11日の朝日新聞一面の内閣改造の記事があった。岸信介60歳。石井光次郎副総理67歳。藤山愛一郎外務大臣60歳。一万田尚登大蔵大臣63。赤城宗徳農林大臣52。前尾繁三郎通産大臣51。田中角栄郵政大臣39。石田博英労働大臣42。正力松太郎国務大臣科学技術庁長官)72。河野一郎国務大臣経済企画庁長官)59。愛知揆一官房長官49。そうそうたる政治家の名前が並ぶ重厚な布陣であると感心したが、一方で、この時代の閣僚の年齢の若さにも感銘を受けた。

一万田は、若い頃には織田信長のような人だと言われたそうで、非常時の人物であるとみられていた。実際には豊臣秀吉が趣味だった。最大の趣味は伝記を読むことであった。

この本の中であるエピソードが目に留まった。大分市太田市長から高碕山のふもとに水族館をつくりたいとの相談を受けたとき、「配当をもらえなくとも構わないという株主だけを集めて会社を作りなさい」と助言し、富士紡績を筆頭株主とした「マリーンパレス」という素晴らしい水族館が1964年にオープンした。高碕山に入るまえに、この水族館を訪問したことがあるが、その規模と優れた内容に感心したことを思いだした。一万田のおかげだったのだ。

GHQは日本人を3S(スポーツ、スクリーン、セックス)で骨抜きにしようとしているといわれていたが、一万田は「蟷螂の斧だ。もう間に合わないかもしれない」との危機感を持っており、引退後の家族の食卓でそのことは何度も聞かされたという。娘が嫁ぐときに「七草を そらんじ終えて 嫁ぎ行く」との句も詠んでいる。日本人が骨抜きにされてしまうという一万田尚登の危機意識は、その後、半世紀を経て、ますます深まっているようにみえる。

一万田尚登は、「人間はある意味で永劫に未完成」であるとし、「一かどの人間になっているかの錯覚を無意識にせよ早く起こしてはならぬ。それは、既知数になることである」と警戒していた。やはり、人間は死ぬまで未知の自分をさがしていくべきなのだ。


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