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「名言との対話」5月8日。澁澤龍彦「時間がないのだから本当にやりたいことだけやるよ」

澁澤 龍彥(しぶさわ たつひこ、本名、龍雄(たつお)、1928年5月8日 - 1987年8月5日)は、日本の小説家、フランス文学者、評論家。

2007年9月30日に仙台文学館で開催中の 「澁澤龍彦 幻想文学館」をみている。フランス文学者で、文学、芸術批評、文明論、博物誌、紀行、翻訳など膨大な足跡を残した澁澤龍彦は、「悪徳の栄え」を猥褻文書として起訴されたサド裁判で世に知られるようになった。仙台文学館も含む全国数箇所での展覧は没後20年を記念した企画だった。

東大浪人中に出会った「モダン日本」編集長時代の吉行淳之介。同年生まれで知り合ってから全ての公演を見続けた舞踏家・土方巽との運命的な出会い。画家の池田満寿夫。演劇の唐十郎。公私にわたり世話になり最良の読者の一人でもあった三島由紀夫。先達であった稲垣足穂。フランス文学者・批評家・紀行作家の巌谷国士。小説家・遠藤周作
日本画家・加山又造。詩人・白石かず子。作家・野坂昭如。人形作家・俳優の四谷シモン、、。こういう時代の最先端を疾走する人々が、澁澤の周りにいた。

代表作と呼べるものを以下に記しておく。「夢の宇宙誌--コスモグラフィア・ファンタスティカ」。遊びや消費を賛美したエッセイ集。(「60年代に刊行した十数冊の著書の中で、私のいちばん気に入っているのが、「夢の宇宙誌」である」)。「快楽主義の哲学」(KAPPAブックスのベストセラー)。「滞欧記」。「偏愛的作家論」(泉鏡花、谷崎潤一郎、日夏、南方熊楠、岡本かの子、石川淳、堀辰雄、稲垣足穂、埴谷雄高、花田清輝、林達夫、三島由紀夫、野坂昭如、吉行淳之介、滝口修三、安西冬衛、鷲巣繁男、吉岡実、江戸川乱歩、久生十蘭、夢野久作、小栗虫太郎、橘外男、中井英夫、、、)。「高丘親王航海記」。「オー嬢の物語」(翻訳)。「さかしま」(「まず装丁にまたまた嫉妬にかられ、一生に一度でいいからこんな本を出したいと   思ひますのに思ふにまかせません。わが身の不運を嘆くのみ」(三島由紀夫からの葉書))。雑誌「血と薔薇」(責任編集)。翻訳はサド、ユイスマン、コクトー、ジュネ、バタイユ、マンディアルグ、レアージュ、、。

抜群の記憶力の持ち主で、旅行中はメモを取らなかったが、宿についてその日のことを整理するというやり方だったと妻の龍子が述べている。ノートはやや小型版だが、丹念に書いてあった。絶筆であった「高丘親王航海記」、「滞欧日記」を買って帰る。
そして妻の澁澤龍子が夫と過ごした18年の日々を静かにふりかえった「澁澤龍彦との日々」(白水社)を帰ってから読んだ。澁澤の日常がよくわかるいいエッセイだった。結婚は澁澤龍彦41歳、妻龍子21歳。両方とも辰年生まれ。子どもを持たない約束だった。
「40年近くを、スランプを一度も経験することなくやってこられたのは、好きな翻訳で気分転換をはかれたこともあると思います」「推敲を終えた原稿を清書するのは、私の役目でした」「赤坂「鴨川」のふぐ、麻生の「苞生」、高橋のどじょう屋、、」「澁澤はつねずね、自分は「目の人」だと言い、絵や彫刻のことなど、目で見たもののエッセイはたくさんありますが、、、」「ヨーロッパ旅行を境に、澁澤は変わったと思います、、、、内から外に向かって、何かバアッと開かれた感じがしました」 「ホテルに帰ってから、一日のことをきちんと書きしるすのが習わしでした」「国内旅行の場合は、一つ仕事が終わると息抜きとして出かけたものでした」「書けば必ず三島さんが読んでくれるという、期待感と同時に緊張感がありました」「澁澤は何かにつけ三島さんのことを語りました」「いつも書斎にとじこもって昼夜逆転しているような人が、旅に出ると不思議に早起きで、まあよく歩きます」

それから10年後の 2017年10月11日に世田谷文学館の「澁澤龍彦」展--「ミクロコスモスとマクロコスモス」をみる機会があった。「伸縮自在のミクロコスモスとマクロコスモスの観念を、二つながら手にれることが必要なのではないか」

忘れてまた買った『澁澤龍彦との日々』で気に入ったところに印をつけた。後で照合してみたが、2007年にピックアップしたところと全く同じ箇所だったのには自分でも驚いた。

この作家は関心が広くかつ膨大な量の仕事を残しており、翻訳全集全15巻別巻1巻、全集全22巻別巻2巻がある。「執筆は遅いほうでした。平均すれば一日に一枚か二枚というほどでした、、」との妻の証言があるが、それでこれほどの量が残るものなのだろうか不思議な感じがする。

翻訳については「独創性を完全に殺したところで勝負できるからこそ面白い」と言っていたが、「変化を自覚しつつ、新しい道を探し求める傾向」があり、「やがては小説でも書くより以外には行き場がないんじゃないか」と考えており、そのとおりになった。妻は「五十を過ぎたころから、澁澤は「持ち時間が少なくなったから」としきりに言うようになりました、、、「時間がないのだから本当にやりたいことだけやるよ」と、、、」と語っていたそうだ。確かに死を意識してから10年はなかったことになる。59歳で亡くなったのだ、がもし天寿を全うしていたらどのくらいの翻訳や著作が生まれたのか、皆目見当がつかない。

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