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「名言との対話」 7月31日。杉原千畝「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです」

杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年〈明治33年〉1月1日 - 1986年〈昭和61年〉7月31日)は、日本の外交官。

杉原千畝には縁が深い。2005年以来、記念館訪問記も含めブログにまとまって書いているだけでも以下のように5回もある。古い順に並べてみよう。人物論も時間を重ねることによって、しだいに深まってくる。

2005-10-11。民放の終戦60周年ドラマスペシャル「日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ・世界が涙した愛と感動のストーリー大戦下のヨーロッパで6000人ものユダヤ人を救った日本人がいた」は2時間の大型番組だった。第二次大戦の前後、外務省職員の杉原は当時リトアニア勤務。ドイツのユダヤ人虐殺が始まった頃、本省の反対を無視して2139枚のビザをユダヤ人に発行する。国外退去の寸前まで駅頭で書き続ける。終戦後、杉原はこのため解雇される。20年後にイスラエル大使館から、助けたユダヤ人の連絡が入る。1985年にはイスラエル政府から正式の感謝が伝えられる。そして1986年に死去。日本政府は生誕100年にあたって2000年にようやく名誉回復の措置をとる。当時の外相は河野洋平である。外務省の外交資料館には杉原の顕彰プレートが設置された。インターネットで調べてみると、岐阜県八百津町に記念館があった。今週末の愛知県での講演の帰りに寄ってみようか。
2005-10-15。杉原千畝記念館。土曜日は朝早く、豊橋から名古屋に出て、名鉄線で新可児まで行き、そこからタクシーで30ほどかけて、岐阜県八百津町の杉原千畝記念館を訪ねた。11日の日本テレビの2時間のドラマを見て、急きょ訪問を決めたものだ。
終戦60周年ドラマスペシャル「日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ・世界が涙した愛と感動のストーリー大戦下のヨーロッパで6000人ものユダヤ人を救った日本人がいた」は2時間の大型番組だった。第二次大戦の前後、外務省職員の杉原は当時リトアニア勤務。ドイツのユダヤ人虐殺が始まった頃、本省の反対を無視して2139枚のビザをユダヤ人に発行する。国外退去の寸前まで駅頭で書き続ける。終戦後、杉原はこのため解雇される。20年後にイスラエル大使館から、助けたユダヤ人の連絡が入る。1985年にはイスラエル政府から正式の感謝が伝えられる。そして1986年に死去。日本政府は生誕100年にあたって2000年にようやく名誉回復の措置をとる。当時の外相は河野洋平である。外務省の外交資料館には杉原の顕彰プレートが設置された。

八百津町は、昔は木曽川を使った木材の産地で賑わったが、今はマツタケの産地として知られている。秋の冷え込みと多雨がいい品質のマツタケ生育の条件だが、今年の収穫は悪いらしい。名鉄八百津線は既に廃線となっていた。途中、兼山という町があった。森蘭丸の里だ。また近くには明智という場所もあるなど、信長ゆかりの武将の出身地がある。

総檜づくりの杉原千畝記念館は、生誕100年にあたる平成12年7月にオープンした。1900年1月1日生まれだから年齢が数えやすい。英語教師になる夢を抱いた杉原は早稲田大学高等師範部英語科に入学するが、2年目にアルバイト先の倒産などの事情から、学費支給で3年間勉強できる外務省留学生試験を受けロシア語研修生として満州のハルピン学院の第一期生としてハルピンに渡る。この学院の校長は満鉄総裁であった後藤新平。杉原の座右の銘は「自治三訣」だったと館内の映像が語っていたが、それは後藤新平がボーイスカウト総裁として子どもたちに送った言葉だったことに気がついた。卒業後、外務省に入るが、上司と共に満州国外交部に移る。そこで北満鉄道の買収交渉で名をあげる。ロシア勤務を拒否され、1939年にリトアニア領事代理として家族と共に赴任する。このことが杉原の運命を決める。

1940年7月に、100人ほどの人々が領事館の前で何かを叫んでいる。聞くと、ナチス・ドイツのポーランド侵攻から逃げてきたユダヤ人で、中立国であったリトアニアに住んでいる人たちだった。彼らは日本の通過ビザを求めた。カリブ海のオランダ領キュラソー島に入れるという証明書をもらっていた彼らは、シベリア鉄道でソ連領を通過し日本に出て、そこからキュラソー島に渡るという計画を持っていた。それにはシベリア鉄道でロシアを横断する必要があった。その鉄道に乗るには日本の通過ビザが必要だった。当時は日独伊三国同盟が締結されており、大量のビザを出すことは敵対行為であり、外務省は反対した。杉原は、悩んだ末「人道博愛精神第一」との結論に達し、1か月にわたり、以後2132枚のビザを発給し、6000人の人々の命を救う。

本国の反対を押し切ることで、文官服務規程に違反し昇進停止ないし解雇の恐れがあり、職を賭しての決断だったことがわかる。「ユダヤ民族の永遠の恨みを買ってまで、、、。国益にかなうことだというのか。」と書いている。ユダヤのことわざには「一人の命を救うことは世界を救うことだ」という言葉があり、そうならば杉原は宇宙を救った聖人だという声もあった。「もし、同じ事態に遭遇したら、私は、もう一度同じことをするに違いありません」との言葉も杉原は残している。

終戦後、ソ連に抑留された後、日本に戻った杉原は外務省を解雇される。以後、外務省との付き合いを避ける。いくつかの職場を経て、川上貿易という商社に勤務しモスクワ事務所長としても活躍する。イスラエルは6000人の命を救った杉原を探すが、見つからない。1968年にビザ発給者の一人と再会。1969年にはイスラエル政府宗教大臣より勲章を受ける。イスラエルからは1985年に「諸国民の中の正義の人・賞(ヤド・バシュム賞)」を受けるが、翌1986年に永眠した。

記念館には「決断の部屋」があり、杉原の机と椅子、そして当時の部屋が再現されている。椅子に座ってみるとビザのスタンプがあり、これを押すと壁の画面に「ありがとう」も文字が現われるという工夫もあった。また「肉声テープ」もあり、杉原の声を聞くことができた。

命を救われた世界中のユダヤ人からの手紙が展示してあった。大臣や博士など多くの有能な人々、そしてその子孫(ある人は30人の孫がいると書いてあった)が救われたのだ。杉原ウイーク2005という行事の中で短歌大会があり、小学校373、中学校804、高校273、一般430、もの短歌を集めていた。一般の部では「分秒を惜しみひたぶるに千畝書きし 命のビザよ 文字の乱れて」(井上さなえ)という歌が入選していた。

領事館のあったカウヌス(リトアニア第二の都市)の民家には「1939-1940 ユダヤ人の恩人・杉原千畝がここに領事館を構えていた」という石版がある。そして「スギハラ通り」も日本は、2000年になってやっと杉原の功績を認め河野洋平外務大臣が外交資料館の顕彰プレート除幕式で挨拶をしており、名誉回復がなった。

この記念館は雨にもかかわらず、家族連れをなど多くの人々が訪れて、杉原の偉業に親しんでいた。大正出版の「六千人の命のビザ」「決断」という2冊の本を買い、中部国際空港経由の帰路に読んだ。

偶然と必然によって、歴史的局面に遭遇することがある。杉原はこのときの決断によって仕事を取り上げられて、以後苦しむが、永遠の輝きをもって歴史に名を遺したことになる。

2006-06-20「 「一人の命を救うことは世界を救うことだ」--杉原千畝記念館。PHP「ほんとうの時代」2006年7月号の連載「人物記念館を訪ねる旅--本物の日本人に出会うために」も今回で10回目になる。今回は岐阜県八百津町の杉原千畝記念館。日本のシンドラーと言われた外交官で、ユダヤ人6000人をナチスドイツの迫害から救い、多くのユダヤ人から尊敬されている人物である。

2013-10-07。杉原千畝。根井三郎。小辻節三。6千人の命を救ったリレー。「命のビザ」の杉原千畝の物語。1940年7月29日--9月5日。リトアニア領事代理・杉原千畝、ユダヤ難民へのビザ発給を決断し6000人に日本への渡航ビザを発給。杉原40歳。本省の訓令に背き職務規定違反。「私たちはどうなってもいいから、助けましょう」。1940年8月--ユダヤ難民、シベリア鉄道で2週間かけて極東のウラジオストックへ。1941年2月--6月在ウラジオストック総領事代理・根井三郎、独断でユダヤ難民の渡航を認める。 ハルピン学院(後藤新平校長)で杉原の2年後輩。「自治三訣」。 駐ソ連大使・建部川美次「実害なき者は従来通り査証を与えるよう再審議すべし」「新取扱決定は実情に即せざるもの」。1941年、ユダヤ難民、日本の敦賀に到着。温かくもてなされる。「朝日湯」は休みにして無料で風呂に入れた。「ツルガが天国に見えた」。人道の港・敦賀ムゼウム「ユダヤ人難民コーナー」。1941年、ユダヤ難民、神戸へ。10日間しか滞在を許されなかったが、ユダヤ文化研究者・小辻節三が政府・自治体に働きかけ、ビザの延長を許可を得る。小辻は満鉄総裁・松岡洋介に招かれて総裁顧問をしていた縁で、松岡外務大臣に会う。「滞在期間の延長は自治体に権限がある」と示唆。松岡洋右外務大臣の訓電は暗号電報ではなく普通電報にしていた。松岡「我が国に住む限り、一切の心配は無用」と宣言。1941年秋、ユダヤ難民が出国。上海やアメリカへ。

41歳:プロイセンの在ケーニヒスベルク日本総領事館勤務。ルーマニアの在ブカレスト日本公使館勤務。45歳:捕虜収容所へ連行される。46歳:帰国の途につく。47歳:ナホトカ、4月博多。6月外務省退官。世界平和建設団事務局に就職。貿易会社・川上貿易モスクワ所長。68歳(1968年):元ユダヤ難民と再会。69歳(1969年):イスラエルで宗教大臣より勲章を受ける。85歳(1985年):イスラエルより「諸国民の中の正義の人章」受賞。この勲章には「一人の命を救う者が全世界を救う」と記されている。
1990年:杉原幸子「6千人の命のビザ」を発表。1991年にバルト三国の再独立で関心が高まった。86歳(1986年):永眠。2000年:生誕100年。河野洋平外務大臣が名誉回復措置。手嶋龍一「スギハラダラー」。インテリジェンス・オフィサーとしての杉原。

杉原が晩年に書いた「決断 外交官の回想」。 全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを拒否してもかまわないとでもいうのか? それが果たして国益に叶うことだというのか?」

三世代の3万6千人を救ったことになる。それから15年、銀河の星の数を数えるような数字になっているだろう。
2011年3月11日の東日本大震災発生で、イスラエルのネタニヤフ首相が援助。コート1万着、毛布6千枚、手袋8千、簡易トイレ150を届ける。(資料:白石仁章「諜報の天才 杉原千畝」(新潮選書)。「歴史街道」(2013.11))

2015-12-21 戦後70年企画の映画「杉原千畝」を観る。戦後70年企画の映画「杉原千畝」を観る。主演は唐沢寿明。妻役は小雪。1958年生れのチェリン・グラック監督は、父がユダヤ人、母は日系アメリカ人ということであり、この映画にふさわしい。

リトアニアでヒトラーに追われたユダヤ人6000人にカウナスで日本外務省の命令を無視してビザを発給し7年後には外務省をクビになる杉原千畝の物語。救われたユダヤ人の子孫は4万人以上に及ぶ。彼らは後に様々な国の大臣、芸術家などになり世界を変えていく。ユダヤのことわざに「一人の命を救うことは世界を救うことだ」があるが、その通りだ。

英露独仏語などを操るインタエリジェント・オフィサー杉原千畝は、満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、ルーマニアなどに滞在し、混とんとした世界情勢を収集し、本国へ発信し続けていた。有能な杉原はソ連から「好ましからざる人物」としてのリストに載っていたため、ソ連の周辺諸国でしか活動できなかった。杉原の故郷の岐阜の記念館を訪問しているので、登場人物の言葉の細部まで背景を理解できた。例えば杉原とウラジオストック総領事代理の根井は「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして酬いを求めぬよう」という言葉をつぶやく。それは彼らが学んだハルピン学院の校訓である。それを作ったのは満鉄総裁であり、その学院をつくった後藤新平である。その言葉は、初代総裁をつとめたボーイスカウトの訓でもある。

駐ドイツ日本大使の大島浩は日独同盟の推進者であるが、彼の外務省への打電電報の内容はすべてアメリカによって解読されており、日本の敗戦の一つの要因でもあった。2000年の生誕100年にあたって日本は杉原の名誉回復の措置をとる。当時の外務大臣は河野洋平であり、それを推進したのは鈴木宗男政務次官だった。


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