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「名言との対話」5月13日。田山花袋「書物よりも、生きた人間から受けた影響の方が、ずっと大きい」

田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日明治4年12月13日) - 1930年昭和5年)5月13日)は、日本小説家

群馬県館林市のつつじヶ丘公園に近くの環境のいい場所に、白い記念館が建っている。道路を挟んで、田山花袋が14歳までを過ごした実家が移築されている。2005年に訪問した。 花袋は1871年生まれだから、明治維新の直後に生を受けている。田山家は山形から転封されて館林に来た秋元家という6万石の家来だったが、廃藩置県によって没落する。巡査となった父親とともに東京に出るが、西南戦争で戦死。再び館林に帰る。1886年明治19年)一家をあげて上京。

花袋は「遠野物語」の柳田国男(1875年生まれ)、「破戒」の島崎藤村(1872年生まれ)、「武蔵野」の国木田独歩1871年生まれ)らと深い親交を結ぶ。1899年結婚後、博文館編集局に入社、雑誌編集にも携わる。「太陽」に「露骨なる描写」を発表したり、創刊号より主宰となった「文章世界」でも活躍する。友人の島崎藤村は、後に「田山花袋全集」に寄せて、次のような一文を寄せている。「あれほどの痩我慢と、不撓不屈の精神と、子供のような正直さと、そしてまた虚心坦懐の徳とを誰が持ち得たろう」と語っている。58歳で死の床についたとき、庭先で待機する報道陣の気配を感じ、「今死ななければ恥になる」と家族に語ったという。明治の青年らしい、上昇志向の強い、イメージを大切にする人物だったのだろう。

『蒲団』(1907年)では、主人公の女弟子へのひそかな想いを大胆に告白した。浪漫的文学からの脱皮と人間の真実をありのままに表現し、日本独自の自然主義文学の方向性を決定付けたといわれた。科学性にもとづき、人間や社会の真実性を観察し、表現するフランスの文学思想(ゾラ、モーパッサン)が日本に入り、自己の経験を軸に人間の真実を内面から告白するという方法によって藤村、花袋らが主役となって日本独自の自然主義文学として確立されていった。『田舎教師』(1909年)では、人生への志を抱きながら田舎に埋もれ死んでいく青年の姿を描いた花袋の代表作となった。

田山花袋は、生涯において、小説450篇、評論600篇、紀行文200篇という膨大な仕事を残している。

記念館で売っていた新潮文庫の『蒲団』と『田舎教師』を買う。解説の福田恒存の辛口過ぎる批評が興味深い。「花袋そのひとは、ほとんど独創性も才能もないひとだったのでしょう。」「かれの内部には、なにかを選びとらずにいられないほどの切実な問題意識が欠けていたからです。」「田山花袋の文学の良さも、つまらなさも、すべてそこにかかっております。」「花袋は芸術家の生活を演じたがったひとであります。」「・芸術作品を生むものを、われわれは芸術家と呼ぶのであって、芸術家というものがはじめから存在していて、かれが生んだものを芸術作品と呼ぶのではない。」「かれの本質は善良なる市民であり、文学者としてはせいぜい傍観者的紀行作家にすぎなかったのです」。随分と手厳しい。

嵐山光三郎『追悼の達人』(新潮社)。死んでから人気が出る作家には優秀な弟子達がそろっていて、一斉に美しいエピソードで飾ってくれる。漱石はその最たる人であり、弟子がいなかったのは田山花袋だった。岡本かの子は、一平と太郎によって美化され、伝説化した。

田山花袋は見聞記や紀行文にも見るべきものがあると覆う。

田山花袋『東京震災記』(河出文庫)。「本当の光景や感じや気分」を「出来るだけ」書いてみようとしたものだ。花袋は、被災地を訪れ、被災者の話を聞き、時折自分の感想を述べる。この書は、当時の第一級の文人がみた震災の姿、空気をよく描写しており、聞き込んだエピソードも含めて、会話や語りで震災に遭った人たちの口ぶりを伝えているので、当時の様子が実感を伴ってわかる感じがある。花袋は一カ月半以上の歳月が経った段階で、筆をようやく執っている。大震災に出逢った小説家が、為すべき仕事をしたということだろうか。尊い仕事となって後世に残る仕事となった。

耶馬渓紀行』(田山花袋著、小杉放菴画)。画家の小杉放菴を連れとして、文豪の田山花袋が語る旅行記である。 中津から耶馬渓を中心に、ふる里の名勝について、目を開かされた本だ。

中津ではヤバケイクラブ、自性寺、大雅堂、福澤氏邸址、倉の中、中津城址、忘言亭、などが載っている。八面山、山国川、青の洞門、競秀峰、羅漢寺、猿飛、指月庵、三ヶ月池、うるわし谷、それから豊後森、湯布院、飯田高原、別府なども登場する。文中では「好いね」というだけを発言する小杉放菴が描いた絵も掲載されている

頼山陽伊藤博文、禅海和尚、平田吉胤、吉田初三郎、朝吹英二、後藤又兵衛、雲華上人、広瀬淡窓、村上姑南、国府犀東、油屋熊八、、、、などの名前がでてくる。

田山花袋は生涯で6度も耶馬渓を訪れている。浅い谷、平凡な水の瀬、少ない樹木、深山の趣のなさ、世離れた感じ、などをは失望することはないという。1916年には日本新三景に選ばれている。渓流、白亜の土蔵、田舎、トンネル、飛瀑、奇岩というように、文人画の絵巻をひも解くようにだんだんと現れてくるさまは、天下の名山水だという。耶馬渓は、秋、そして春がよい。

青の洞門、羅漢寺、柿坂のような村落、五龍の渓、鮎返りの瀑、帯岩、津民谷、、、などすべて単独で考えてはいけない。耶馬渓は全体として面白い。耶馬渓は人煙近いところに展開されている。人家あり、宿駅あり、街道あり、炊煙ありというところに独特の山水絵巻がひらけている。

田山花袋自身が、鳥瞰図絵師となった吉田初三郎の「天下無二 耶馬渓全渓の交通図絵」で描いたように、深耶馬、裏耶馬、奥耶馬と連なる耶馬渓という山水画の中に入り込み、点描された人物となる感覚を味わったのだ。これこそ、山水画の本質だ。「もり谷の奥に滝ありもみちあり いさゆき見ませわれしるへせん」という花袋の歌碑は玖珠町の三島公園にある。

1926年、約100年前にこの地を訪れた文豪と画伯のたどった道を旅したい気分になってくる。歴史と地理を睨んだ素晴らしい書籍だ。こういう本が「名著リバイバル」として九州福岡ののぶ工房という出版社から出ているのは素晴らしい。

2017年には「やばけい遊覧ーー大地に描いた山水絵巻の道をゆく」が日本遺産に認定された。私が2017年12月26日に耶馬渓府物館を訪問したとき、「空から見るーーやばけい遊覧」。大地に描いた山水絵巻の道をゆく」展が展示されていたのを思い出した。耶馬渓は大地に描かれた山水画であることがわかった。

「今に、今に、俺だって 豪くなる、、、、豪くなる、、、、日本文壇の権威になって見せる、、、、」。これは花袋青年の決意であった。友人たちと切磋琢磨しながら、日本近代の自然主義文学を先導し、文壇の権威になる道を歩んだ人である。私の郷里の近くの『耶馬渓紀行』を書いた人として。、田山花袋を記憶しておこう。


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