「名言との対話」4月4日。市村清「人の行く裏に道あり花の山」
市村 清(いちむら きよし、1900年4月4日 - 1968年12月16日)は、日本の実業家。リコーを中心とする「リコー三愛グループ」の創始者。
佐賀県生まれ。1929年、縁あって理化学研究所(理研)が開発した陽画感光紙の九州総代理店の権利を譲り受け、朝鮮・満州の総代理店の権利も獲得する。1933年、理研所長大河内正敏より理化学興業(株)感光紙部長に招聘される。1936年理研感光紙(株)専務取締役に就任。同社は2年後に「理研光学工業」に改称され、これが後のリコーとなる。1942年には理研産業団より独立する。
戦後。「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義をモットーに三愛商事(現・三愛)を設立。1952年には三愛石油を設立、外資の攻勢をはねのけて、羽田空港の給油権獲得に成功する。本拠の理研光学においても、1950年に二眼レフカメラ「リコーフレックスIII」を発表、従来のカメラの1/4ほどの価格低下を実現し、大衆カメラブームを巻き起こした。
この他、西銀座デパート、日本リース(リース会社の先駆け)など各社を次々と設立、1962年には経営不振に陥った名古屋の「高野精密工業」の社長となり再建に成功する(現在のリコーエレメックス)。
市村清は「経営の神様」としてマスコミの寵児となり、五島昇、盛田昭夫ら若手経営者や大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三らが門下生となった。有名な「市村学校」である。
2009年に仙台で富田秀夫さんから『市村清講演集』という新書(三愛新書)をもらった。没後40年を記念して三愛会で出した本で、2008年の12月16日の刊行となっている。非売品である。
市村清は、リコーの創業者で、松下幸之助や本田宗一郎と同世代の伝説上の経営者である。三愛石油、明治記念館、ハミルトンリコー時計なども経営したり、大河内正敏博士が率いる理化学研究所でも仕事をしたりしている。富田さんからは時々、「リコー時計」という会社の名前を聞いているが、その会社のことがよくわかった。富田さんは市村清に一度会ったことがあるそうだ。
最初のページに市村学校の紹介があり、「野田一夫君などもおりまして」と野田先生の名前もみえる。1962年の講演の中で「欧米式の経営学などは習ってきて参考にはなるかもしれないがもっと実際的に日本独特に研究していったらどうか」ということを言っていた。当時としてはやはり自分の頭で考える経営者だったのだろう。
この本の中に野田一夫先生の名前が二度でてくる。市村清は1900年生まれだから野田先生より27歳上だが、野田先生は市村学校の生徒だったとある。この講演をしていたころは、市村が60歳のころで、野田先生は30代半ばという計算になる。この学校には、五島昇、盛田昭夫ら若手経営者や大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三等が入っていた。
市村が理研コンツエルンの中でただ一社だけ譲り受けた理研光学という会社が発展して、リコーという名前になった。これで会社の名前の由来がわかった。ビジネスマンだったころ、リコーの営業マンに日参されて、いい営業マンだなあと感心したことを思い出した。あれは市村イズムだったのだ。宮城リコーの社長をながく務めた富田さんにも、そういう雰囲気は残っている。
いかにも創業者らしい言葉が並んでいる。経営の基本は「人」であると強く意識しているとの印象を持った。
この講演集の中から言葉を拾う。
・欧米式の経営学などは習ってきて参考にはなるかもしれないが、もっと実際的に日本独特に研究していったらどうか、、。
・いろいろ書きだしてみて、組み立てたり、バラしたりしえみるおです。そうしなすと、かくならなければならない、かくなるべきだという結論が生まれてくるわけです。
・私が一番苦心しているのは人事管理です、、、。
・(商品の)欠点のあるところをわれわれの販売技術とか熱意とか努力で補い、そういった気迫なくして営業は成り立ちません。
・地位は適材適所
・「人」という問題が徹底的に中心となる
・食欲、性欲、自己拡張慾
・人を愛し、国を愛し、勤めを愛する
・経営学は外国の直輸入の経営学では駄目ではないかと思っております。やっぱり日本には日本の風土に合った経営学があるのではないでしょうか。私のこうしたいろいろなことを取り入れて、野田一夫君がそれを体系化しようとしてやってくれています。
・知っているということは存外、判断力とは別物ではないか、、、。
・人と同じでは人以上にはなれません。
座右の銘は、「人の行く裏に道あり花の山」だ。意識して裏道を行く、それは常に自分の頭で考え抜いて方針を定めるということだろう。多数のいうことを真に受けない。人と同じ道は歩かない。そのことごとくが成功することも素晴らしいが、「市村学校」と言われるほど、多くの人材を育てたことは、戦後の日本の復興にとてつもなく大きな貢献をしたことになる。人の問題が中心、人事管理に苦心、適材適所、など「人」に関する言葉を眺めてみると、市村イズムの底流がわかる気がする。市村清のテーマは「人間」だったのだと思う。
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