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「名言との対話」8月27日。岩波茂雄「困難が来るたびにぼくは元気になるよ」

岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年明治14年〉8月27日 - 1946年昭和21年〉4月25日)は、日本出版人、岩波書店創業者。

長野県諏訪市出身。一高を経て東京帝大哲学科を卒業。1913年8月5日:岩波書店創業。1914年夏目漱石の「こころ」を出版(岩波書店の処女出版)。1921年:「思想」創刊。1927年岩波文庫創刊。1933年岩波全書創刊。1938年岩波新書創刊。1945年貴族院議員。1946年2月:文化勲章を受章。1946年4月:逝去。

岩波新書』創刊の辞にはこう書かれている。「、、、武力日本と相並んで文化日本を世界に躍進せしむべく努力せねばならないことを痛感する。、、現代人の現代的素養を目的として岩波新書を刊行せんとする。、、、躍進日本の要求する新知識を提供し、岩波文庫の古典的知識と相俟って大国民としての教養に遺憾なきを期せんとするに外ならない。、、、古今を貫く原理と東西に通づる道念によってのみ東洋民族の先覚者としての大使命は果たされるである。、、、」

18歳で岩波書店に奉公にあがった小林勇の回想録『惜櫟荘主人--一つの岩波茂雄伝』。岩波茂雄数え歳40歳の時で、創業8年目。漱石の「こころ」が処々出版でその後わずかに30-40点の本を出した時である。

この本の中に、熱海の「惜櫟荘」を求めた時の事情が出ている。二方に崖があり、坪数の割に平らなところが少なく、またその平地の真中に一本の古い櫟(くぬぎ)の木があった。背は低いが幹は太く、一種の風格をたたえていた。岩波はこの木を残しておきたいと思った。
岩波はかねてから温泉のある別荘を持ちたいという希望を持っており、また津田事件の結果投獄されるかもしれないから体を養っておこうとしたのだ。
「櫟」を岩波が引くと、やくざな木で、使い道がないというふうに出ていて、「それはちょうど俺のようだ」と面白そうにいった。
岩波はこの惜櫟荘が気に入って、しょちゅう人を招いていた。そしてここで最後を迎えるのである。浴室、洗面所、便所、日本間、洋間そのずえてから海を眺めることができた。それぞれ違う趣を持って眺めることができるのが岩波の得意とするところだった。

この小林勇という人は岩波書店の店員であったのだが、後に岩波の次女・小百合と結婚しているから、もっともそばにいてこの「先生」の日常をよく観察した人であろう。岩波茂雄が66歳で死去するまでの小林の回想録だ。岩波の人となりと日常がよくわかる。

  • 先生は旅行が好きで、実に気軽に出て行った。

  • 先生の生活はつつましいし、けちんぼだと思わせるようなこともあった。

  • 先生は殺生が嫌いであった。

  • 先生ははじめることが好きで熱中するが、しばらくたつと何かさめてくる癖があった、

  • 岩波は、出版をはじめた時から本を作るのに、すべて最高を求めた。処女出版漱石の「こころ」の時も、岩波が何でもよい物を使いたがるので、漱石や友人たちが心配したという。

  • 岩波は日本人が中国人のためによい仕事をしているときけば、その人々を激励せずにはいられなかった。

  • 「岩波さんに本を出してもらいたいと思うときには、この本は立派な内容だが売れないだろうといいさえすればよい。岩波さんはそれをきくときっとその本を出そうという。、、」(小泉信三

  • 仕事始めの日には社員に短いが心のこもった挨拶をした。

  • 岩波は何か困難なことがあると勇気が出、元気になるといつも言っていた。

佐伯泰英初の書き下ろしエッセイ佐伯泰英 『惜櫟荘だより』を読んだことがある。岩波茂雄の別荘の修復の志の物語である。佐伯が作家活動で得た原資を使って、熱海の自宅の隣にあった「惜櫟荘(せきれきそう)」を買った。この建物は岩波茂雄のが精魂を傾けた名建築の別荘だった。この別荘は、岩波文庫の売り上げによって建てられた。それを時代小説文庫描き下ろし作家が受け継いだことになる。「れき」は椚(くぬぎ)の木のことだ。文化人・岩波茂雄と名建築家・吉田五十八の意地のぶつかり合いの結晶だ。「どこからでも海が見える設計」のその惜櫟荘の修復の物語である。

安部能成は親友の岩波茂雄については、すぐれた人物には深い欠陥があるとも語っている。誰よりもよく知っていると考え、安部能成は『岩波茂雄伝』を半分自分から買って書いている。また小林勇は「先生ははじめることが好きで熱中するが、しばらくたつと何かさめてくる癖があった」と言っている。

岩波茂雄の若い頃から悩み多き人だった。教師にも向かないということがわかり、古書店を始める。そして始めることに熱心だがすぐに飽きるという習性もあった。夏目漱石とその弟子たちとの親交もあって出版という社業は順調だ。だが、岩波文庫を発刊させ、その6年後には岩波全書、その5年後には岩波新書という具合に立て続けに新機軸を打ち出し、成功させている。「熱しやすく冷めやすい」という欠陥、癖は、逆に新企画を生むのに格好の利点だったのではないだろうか。「困難が来るたびにぼくは元気になるよ」というが、それはみずから新しい困難に身を投じることを好んだからかもしれない。こういう人は多くの業績を残すことができる。

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