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「名言との対話」6月3日。泉靖一「偉大な思想はフィールドから生まれるんですなあ」

泉 靖一(いずみ せいいち、 1915年6月3日 - 1970年11月15日)は、日本の文化人類学者。東京大学東洋文化研究所教授。

祖父・泉麟太郎は夕張郡栗山町の開拓を行い、村長、道議会議員。栗山町にはに泉麟太郎記念館がある。父は明治大学、台北帝大と並ぶ植民地帝大であった京城帝国大学で教鞭をとった学者。靖一は京城帝大で学び、助手となる。1945年30歳で助教授となるが、敗戦で引き揚げる。

博多の聖福寺(日本最古の禅寺。仙厓和尚が住職だったことがある)におかれた在外同胞援護会救療部の仕事をする。京城帝大助教授を自然退官となった。その後、明治大学講師と経済安定本部で仕事をする。明治大学助教授となり、1951年36歳で東大東洋文化研究所助教授。40歳、東大教養部に文化人類学専攻課程が新設され移る。1964年49歳で教授。55歳東大東洋文化研究所所長。1970年突然死去。享年55。

藤本英夫『泉靖一伝』(平凡社)を読んだ。

2020年生まれで5歳年下の盟友・梅棹忠夫は、2010年に90歳で死去している。泉とは35年の差がある。梅棹忠夫の回想を拾ってみる。

・死の当日に、梅棹の常宿であるニューオオタニで打ち合わせ。民族学博物館設立運動のコンビ。梅棹は戻った京都で夕刻の司馬遼太郎との対談中に連絡をもらい「顔色が蒼白」(司馬遼太郎)になる。
・1年後の1971年から1972年にかけて『泉靖一著作集』が出る。泉の全貌を著すにはものたりないとし、「急ぎすぎたのではないか」と語っている。
・泉靖一は「おおざっぱなところがあった」「世話好きで、気がいい」
民・族学界の今西から、ヒマラヤをとるか南アメリカをとるか迫られ、南アメリカをとるという賢明な判断をした。ブラジル調査を終えて「ペルーの古代文明に取り組もう」と決心する。40歳。
・文化人類学・社会人類学においては東大と京大は仲がよすぎて「公武合体」と言われ、そのエネルギーが民博へとつながっていく。
・泉は東大においては一匹狼だった。母校喪失。「集団の統率には驚くべき才能を持っていた」。
・1974年開館の国立民族学博物館。「もし、泉さんが生きていれば、初代館長は彼であったはず、、」と梅棹は退職記念講演で語った、

泉靖一の生涯を追うと、「出会い」が人生を変えるということを改めて感じる。

若き日に済州島の漢?山(1950m)を調査したことで、人類学に関心を持つ。「人類学を一生続け、漂泊の人生を愉しむためびはなにをなすべきか」と考え、「ドキュメンタリー映画」の制作者になりたいと思うようになる。人類学の応援者である渋沢敬三との出会いもあった。渋沢40歳、京城帝大2年生の泉は21歳。渋沢は泉にとって福の神だった。

南アメリカのアンデス文明をフィールドとした泉靖一はわかりやすい文章を書いた。以下、泉の著作の素晴らしさがわかる。1959年、44歳、田村義也装幀の『インカ帝国』(岩波新書)がベストセラーになる。962年、47歳、『インカの祖先たち』(文芸春秋社)が毎日出版文化賞を受賞。1967年『フィールド・ノート』(新潮新書)は東大の石田英一郎と京大の今西錦司から推薦文をもらい、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。1966年、51歳、『済州島』(東大出版会)。

梅棹は「落葉帰根」という言葉があるように、「かれは、朝鮮文化の人類学的研究をかんがえていた」と惜しんでいる。

山口昌男は「学者の評価は周りの持ち上げ方による部分もある」という。文学の夏目漱石、生物学・人類学分野の今西欣司をはじめとする京都学派などをみているとその観を深くする。それに比べると母校を喪失した泉靖一は一匹狼であり、梅棹忠夫が民博の初代館長となって大活躍を始めるのが50代半ばからだから、55歳での夭折は惜しんでも余りある。

冒頭に掲げた「偉大な思想はフィールドから生まれるんですなあ」は、 「時代を撮れ!時代を記録しろ」と言った日本テレのドキュメンタリー映像作家・牛山純一が酒場で泉から聞いた言葉だ。「野帳」を常に持ち歩いたフィールド―ワークの先に雄大な思想をみたかった。

泉の墓は八王子の郊外の鑓水「まや霊園」にあり、墓石にはアンデスのセロセチン遺蹟の石像の線刻画が描かれているという。「まや霊園」に埋葬されたのは、マヤ文明と関係があるのだろうか。鑓水は近くなので訪ねてみよう。

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