「名言との対話」12月21日。額田六福「師事する」
額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年)10月2日 - 昭和23年(1948年)12月21日)は、日本の劇作家・大衆小説作家。
岡山県出身。17歳で右手首を失う。脊髄カリエスも病む。劇作家・岡本綺堂に入門し、添削指導を受ける。26歳、上京し綺堂の近くに住み早稲田大学文学部英文科に編入学。「新演芸」誌の懸賞で坪内逍遥の評価が高く当選、歌舞伎座で上演された。新富座で沢田正二郎の新国劇で「暴風雨」が取り上げられ、沢田と親しくなる。1926年委は沢田の「白野弁十郎」が大当たり当たり狂言となった。これはシラノ・ド・ベルジュラックの翻訳だった。1930年には綺堂監修の月刊誌「舞台」の創刊を担う。綺堂没後は中心となった。
額田六福は創作・脚色・翻案した台本は「白野弁十郎」など88篇は舞台上演され、「天一坊と伊賀亮」などが映画化され、ラジオ・ドラマにもなっており劇作家として成功をおさめた。
額田六福の生涯を眺めると、新聞記者と劇作家の二刀流でもあった、傑作「半七捕物帳」の岡本綺堂に師事したことが大きなウエートを占めていることがわかる。劇作の脚本の指導はもちろんだが、綺堂の養嗣子となる岡本経一を紹介している。経一は綺堂の最後の弟子であり、青蛙房という出版社を創業し、綺堂の作品や江戸文化を広めていった。綺堂にとっても額田は得難い弟子でもあったのだ。2020年には故郷岡山の「勝央美術館」で「岡本綺堂誕生130周年、岡本経一没後10年」の企画展が開かれている。テーマは「大衆とともに」だった。
「師事する」という言葉は最近はあまり聞かなくなった。直接指導を受けるという意味で、英語では「study under」という表現になる。ひそかに尊敬するという意味の私淑とは違う。年が近い場合は「兄事」だろう。
死語と化している「師事する」を取り上げてみたい。このブログで2年間で「師事」という言葉を探してみた。
岸田劉生は黒田清輝に師事。大江健三郎は渡辺一夫に師事。樋口一葉は半井桃水。上村松園は竹内栖鳳。佐久間象山は佐藤一斎。菊池寛は上田敏。川合玉堂は橋本雅邦。宮城道雄は中島検校。田中芳男は伊藤圭介。堀辰雄は室生犀星。佐伯祐三は藤島武二。中谷宇吉郎は寺田寅彦。松本良順はポンペ。木川田一隆は松永安左ェ門。勝海舟は佐久間造山。三橋鷹女は与謝野晶子。安倍能成は夏目漱石。茅誠司は本多光太郎。志賀潔は北里柴三郎。植芝盛平は中村天風。橋本陽子は明石朴景。杉山寧は松岡瑛丘。水原秋桜子は窪田穂。宇都宮徳馬は河上肇。清水みのるはサトーハチロー。浅田常三郎は長岡半太郎。八田一郎は高浜虚子。杉浦非水は斎藤茂吉。斎藤茂吉は伊藤佐千夫。大塚久雄は内村鑑三。横光利一は菊池寛。東畑精一はシュンペンター。、、、、、
中津出身の剣客で勝海舟の剣道の師でもあった島田虎之助は「強い者には師事する。弱い者には教えてあげる」と言っている。私の場合はどうだろう。師事は野田一夫、兄事は寺島実郎ということになろか。「師事」という言葉は、豊かな鉱脈を持っているように感じた。さらに掘り進めてみよう。
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