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「名言との対話」1月11日。高橋幸宏「新しいツールはいつでも僕らをワクワクさせてくれるし、そこから新しい音楽が生まれますよね」

高橋 幸宏(たかはし ゆきひろ、1952年昭和27年〉6月6日- 2023年令和5年〉1月11日)は日本シンガーソングライタードラマー音楽プロデューサーファッション・デザイナー文筆家

東京都出身。小学校5年生からドラムをたたき始める。立教中学では同級生の荒井由実と友人。高校ではスタジオミュージシャンとして活動。武蔵野美術大学短大を中退。加藤和彦らとサディスティック・ミカ・バンドで活動した後に、細野晴臣坂本龍一イエロー・マジック・オーケストラYMOを結成し、翌年伊波ワールドツアーを2度敢行するなど、このテクノ音楽グループは世界的大成功をおさめた。

私は音楽にうとくて、このグループの活躍は知っていたが、そのメッセージも、彼ら3人のこともよくは知らない。息子が音楽の世界いることもあり、細野の本を読んだり、坂本の音楽には少し触れた程度で、高橋につてはまったく知らなかった。

高橋幸宏は、作詞、作曲、ボーカル、ファッションデザイン、演奏、音楽プロデュースと実に多彩な才能を開花させた人だ。そして同時代の才能のある音楽関係の人と、さまざまなプロジェクトを実行していることに驚いてしまった。今回、テクノポリス、RYDEENなどを聴いてみた。

YMOの3人の発言を追ってみることにした。

細野晴臣は1947年生まれで、1952年生まれの坂本、高橋より5つ年上であり、父親がわりのボス的な存在であった。

1978年2月19日に、二人を自宅に招いて、冨田勲シンセサイザーに傾倒していた細野は「マーティン・デニーのエキゾチックサウンドをエレクトリック・ディスコ的なアレンジで行う」と構想を語っている。

細野晴臣高橋幸宏 YMOを語る」、というユーチュブの動画をみた。細野は、改めてYMOの全曲を聴いてみたが、「ユキヒロのものだ」と発言している。それに対して、ドラマーであった高橋は謙虚に「太鼓持ちです」と応じている。高橋の作曲の曲に、2人が肉付けしたときに「一番YMOらしさが出る」というのが細野の述懐だった。

細野は坂本龍一との対談で、慎重な坂本に対してファーザー・コンプレックスだったと語っていた。坂本龍一はあるところで「遊びは結果を求めませんし、プロセス。僕が音楽を作るのもそんなプロセスが面白いから、、、子どもの遊びみたいに、何を作ろうとイメージするのではなく、いじっているうちに形になっていく。それが創作であり、僕にとって創作こそ遊びだと思います」と語っていた。この時、音楽も知的生産なのだと共感したことがある。高橋は初対面の坂本に、ダサい服装をみて「かっこいいのにもったいない」とアドバイスしている。

高橋幸宏の発言。「いいものを創造すれば、必ず人々はそれを必要とする」「新しいツールはいつでも僕らをワクワクさせてくれるし、そこから新しい音楽が生まれますよね」「ビートルズも最新テクノロジーを積極的に取り入れることを、ジョージ・マーティンとともにトライし続けていましたよね。テープを切り刻んだり、新たなエフェクターを開発したり」と語り、今あるテクノロジーを最大限に利用して新しい音楽を作り出すことの重要性を説いている。

高橋が亡くなった時、「幸宏が16歳のときから、54年の付き合いでした」「幸宏は(サディスティック・)ミカ・バンドで世界のセンスを身に付けて、サディスティックスでドラムの腕を磨いて、YMOで才能を開花させたと思ってます。ポップセンスも優れていて」「人の一生は一冊の本のようだ。いま「高橋幸宏」という本を読み終え、多くのファンがあとがきを書こうとしている。物語は終わったが本は消えず、ずっとそこにある」と追悼している。

高橋幸宏は音楽の世界にテクノ技術を持ちこんで、ワクワクしながら70年の音楽人生を思う存分に楽しんだのだろう。細野晴臣には「人間、練習すれば間違える。計画すると失敗する。覚えていると忘れる。生きていると死んじゃう」との名言もある。細野より若い坂本も、高橋ももうこの世にはいない。

人生は一冊の本である。人生のステージをペラペラと軽く読み飛ばす人もいれば、人生の秘密を熟読する人もいる。この本には、タイトルを刻んだ表紙があり、まえがき、そしていくつかの章がある。そして最後に、あとがきがある。追悼文というのは、このあとがきではないか。あとがきの、量と質がその人が生涯を通じて人に与えた影響力なのだ。

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