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「名言との対話」4月17日。ニキータ・フルシチョフ「相手側も全面核戦争を望んでいないはずだ」

ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ1894年4月17日 - 1971年9月11日)は、ソビエト連邦政治家ソ連共産党中央委員会第一書記閣僚会議議長(首相)の職にあって、11年間に渡って同国の最高指導者をつとめた。

ウクライナに近いロシア連邦南部のクルスク県カリノフカ村の炭鉱夫の家庭に生まれる。1938年1月にウクライナ党中央委第一書記に転じ、1949年12月までウクライナで活動、とくに対独戦と戦後復興に尽力した。この間、1947年3月から12月まで第一書記を辞し、ウクライナ首相を務めた後、第一書記に戻った。

フルシチョフは権力の座に就くと、独裁と恐怖政治を世界に暴露したスターリン批判を行った。

対外的には「核の時代においては、平和共存こそが唯一の合理的選択である」として、アイゼンハワー大統領のアメリカを中心とする西側陣営と平和共存をはかり、雪どけムードを作った。しかし1962年のキューバ危機ではケネディ大統領と対立し、核戦争寸前でほこを収めた。

宇宙開発ではスプートニクやボストークの打ち上げなどでアメリカを凌駕したが、同じ社会主義国との関係は必ずしも良くなかった。毛沢東中華人民共和国フルシチョフを修正主義とし、中ソ対立が先鋭化した。アルバニアとも対立、ハンガリー動乱に際しては軍事介入を行っている。

1962年の「キューバ危機」は、米ソが核戦争の瀬戸際までいった人類の危機であった。山崎雅弘『戦史ノートVol63 キューバ危機』(六角堂出版)で改めて、事実確認と危機回避がどのように行われたのかを学ぶこととしたい。

キューバ革命の英雄カストロは、アメリカに対抗するためにソ連と手を組んだ。当時のソ連は、黒海を挟んだ対岸に位置するトルコをはじめ、ヨーロッパの「西側(親米)国家」に配備されたアメリカの核ミサイルによって、首都モスクワをはじめとする大都市の安全が脅かされていた。ソ連キューバにミサイルを密かに配備。存在しないはずのソ連製の準中距離弾道ミサイルやその発射施設とおぼしき物体をアメリカが確認したところから危機が始まった。

アメリカのケネディ大統領は、攻撃を主張する閣僚たちを抑え、海上封鎖と核の撤去をソ連に強く要請する。フルシチョ首相「(海上封鎖)は、国連憲章や船舶の公海上での航行の自由を認める国際的慣習を侵害するもので、なおかつキューバソ連に対する明白な内政干渉だ。そんなことをする権利は貴国にはない」と返答。

交渉の途中、キューバ上空で偵察飛行中のU2がミサイルに撃墜され、米空軍のパイロットは死亡した。ソ連軍の地対空ミサイル発射機だった。現場判断であり、双方に緊張が走った。両国が保有する戦略核弾頭の数は、アメリカの約7000発に対してソ連は約500発だったが、第三次世界大戦の引き金となる可能性が高かった。

フルシチョフソ連の出した「キューバへの封鎖を解き、キューバに侵攻しないと約束し、海賊のような臨検行為を停止をやめよ」「わが国がキューバからミサイルを撤去する条件として、貴国もトルコ国内に配備している(核弾頭を搭載可能な)ミサイルを撤去しなくてはならない」という条件をアメリカがのみ、ソ連の貨物船がすべて進路を変えてUターンし、東へ引き返した。

双方が相手側が決して「全面核戦争を望んでいないはずだ」という、奇妙な信頼関係は存在していた。対立する陣営の双方が、互いが持つルールの違いにも配慮し、特定の行動が持つ効果、影響の波及、新たな展開になどに細心の注意を払わなければ、外交というゲームは崩壊し、戦争という最悪の事態に至る可能性がある。それがキューバ危機の教訓だとしている。

現在進行中のウクライナ戦争は、より複雑な国際関係のもとで、戦術核という新兵器の使用の可能性などもあり、突発的な意図せざる事故などがきっかけとなって、核の使用を含むNATOとロシアの世界大戦に向かう恐れもある。キューバ危機の教訓が示すように、双方がこの危機を制御できるだろうか。


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