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「名言との対話」 9月23日。花田清輝「人生論以上につまらないものは、--さあちょっと思いあたりませんが、たぶん、その人生論の著者でしょうね」

花田 清輝(はなだ きよてる、1909年(明治42年)3月29日 - 1974年(昭和49年)9月23日)は、作家・文芸評論家。

福岡市生れ。1931年、京大選科在学中に「サンデー毎日」の小説募集に応じて「七」が入選。昭和10年代には主として「文化組織」に評論を発表、戦後にそれらを編成し「復興期の精神」(1946)を出し、ユニークな評論家として注目された。やや難解なレトリックに満ちているが、現代を「転形期」として見すえながら変革をめざすその思想は、広い影響力を持った。52‐54年「新日本文学」編集長を務める。「アヴァンギャルド芸術」(1954)、「大衆のエネルギー」(1957)などを通じて芸術運動の新方向を開拓し、他方、埴谷雄高,吉本隆明らとの論争を通じて、政治における心情主義を批判した。

・肉を斬らせて皮を斬り、骨を斬らせて肉を斬り、髄を斬らせて骨を斬るつもり

・論争の勝敗は、座談会の速記に、だれが最後に加筆したかによってきまるのである。

・文体は人体のようなものだ。

・批評とは「無数の砂粒の運動」、「砂の波の起伏の無限につづく、砂漠の運動」を取り上げることであり、その運動に加わることである。

巧みなレトリックとを駆使した文体を持つ韜晦の批評家であった花田は自らを精神のマッサージ師としていた。未来社の編集長だった松本昌次は「花田さんの文章はジャズです。ジャズのビートが感じられる」とうまいことを言っている。ビートが効いた文体から繰り出す恐ろしい真実の言葉にシビレタ人が多いのはよくわかる。

花田の軌跡を追って感じたことは、めまぐるしい生涯であったということだ。エネルギーが多いようで、仕掛けたことが実に多く、また関わった人も膨大であった。古谷剛正、高木養根、進藤一馬、野口米次郎、中野正剛、安部公房、加藤周一、野間宏、岡本太郎、埴谷雄高、宮本顕治、大西巨人、木下順、、、思想の左右を問わない人だった。また世間の耳目をひく論争の当事者であった。高見順とのゴロツキ論争、荒正人らとのオラリスト論争、吉本隆明との転向論争、、、、。花田は常に論争をしていた。そして大学を除籍、編集長を解任、共産党を除名、など世間を騒がすことについては天下一品だった。

花田の「サラリーマン訓」は珍しいタイトルだと思って調べると、「長と名のつく社の幹部諸君にたいしては、つねに、アワレミの心をもって接すること」という調子である。一種の解毒剤として読まれたのだろう。「肉体の老化のテンポについていけずに、精神だけが、いつまでも若々しいばあいもあれば、その反対のばあいもあるのである」。このアンバランスを花田は老醜と言っているのも苦笑せざるを得ない。

極め付きは、「人生論以上につまらないものは、--さあちょっと思いあたりませんが、たぶん、その人生論の著者でしょうね」だろうか。全面的に受け入れるわけにはいかないが、もらった刺激は尋常ではない。

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