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「名言との対話」6月7日。中村正直「天は自ら助くる者を助く」

中村 正直(なかむら まさなお、1832年6月24日天保3年5月26日) - 1891年明治24年)6月7日)は、明治時代の日本啓蒙思想家教育者

東京麻生出身。幕府同心の長男。四書、筆法、漢学、蘭学を学ぶ。1848年に昌平坂学問所にに入り、英語とともに佐藤一斎から儒学を学ぶ。1855年、学問所教授。甲府徴典館学頭、を経て幕府の御儒者となる。1866年、菊池大麓ら幕府の英国留学生を引率し渡英。幕府崩壊に伴って帰国し、静岡学問所教授。

1870年、S・スマイルズ『セルフヘルプ』を『西国立志編』(自助論ともいう)として翻訳刊行しベストセラーになった。2年後にはJ・Sミルの翻訳本『自由之理』を刊行した。大蔵省翻訳御用をつめながら、家塾・同人社を開く。1974年に受洗。1875年、東京女子師範学校摂理になるなど女子教育と盲唖教育にも力を注ぐ。東大教授、文学博士、貴族院議員。

1885年に『今日新聞』(現「東京新聞」)い各界を代表する人物の投票結果で、「日本十傑」が載っている。10位が榎本武揚、6位が中村正直、5位が渋沢栄一、4位が鳩山和夫、3位が伊藤博文、2位が福地源一郎、1位は福沢諭吉であった。

中村正直の『西国立志編』は西洋の偉人その他の人物の生き様を多数紹介したもので、私も読んだ。みな、志を立てて人生を自力で切り拓いた人たちで、この本を読んだ明治の青年たちは、奮い立ったであろうことが容易に想像できる。その例を挙げてみよう。

『北村透谷集』は、没後に島崎藤村が編んだものだ。この本のなかで、福沢諭吉中村正直(敬宇)の比較を論じていたのに興味を持った。「『西洋事情』で一世を風靡した福沢は平穏なる大改革家である。しかしこれは外形の改革である。福沢は旧世界を嫌い、新世界に身を捧げた。一方、内面を扱う思想界では、中村正直がいる。彼は適用家、保守家である。儒教的思想をもってスマイルズ『自助論』から選び取った書を書いた。中村は旧世界と新世界の調和を保っていた、との評価をしている。透谷は「福沢翁と敬宇先生とは新旧二大潮流の尤も視易き標本なり」と結論している。

「日本のビール王」馬越恭平は座右の書とした。

銀行家の三島弥太郎は、7歳で中村正直の私塾・同人社分校で普通学と英語を学んでいる。

足尾鉱毒事件の解決にあたった田中正造は、2年9か月の牢獄生活を送るが、この間、「西国立志編」を読んで発奮する。

エーザイ創業者の内藤豊次は旧制中学2年の時に、サミュエル・スマイルズ西国立志編』を読んで感激し、「天は自ら助くるものを助く」を座右の銘とした。

人類学者の鳥居龍蔵は、尋常小学校1、2年年の間に二度、落第し、辞めている。その後は、独学で書物を読み進めていく。新聞を読み、中村正直の「西国立志編」を好んだ。

中村正直西国立志編』(1870年刊)と、3つ年下の福沢諭吉『が中津市学校をつくる時のはなむけの書『学問のすすめ』(1872年刊)は、明治の青年たちの生き方に多大な影響を与えた。中村が「Heaven helps those who help tremselves」を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのは学識が広く深いがための、名訳である。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」から始まり、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」と学ぶことを強調している福沢諭吉学問のすすめ』と、その生き方の実例のモデルを紹介した中村正直訳『西国立志編』の影響力が、明治国家建設のエネルギーとなったのだ。

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