見出し画像

「名言との対話」4月26日。小幡英之助「歯科医免許制度」

小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) - 1909年明治42年4月26日)は、日本最初の歯科医師。享年59?

豊前国中津(現・大分県中津市)出身。藩校・進脩館に学び、15歳で元服し長州討伐で初陣。20歳、中上川彦次郎と慶應義塾の塾長をつとめていた叔父の小幡篤次郎を頼り上京し慶應義塾に入塾。中津出身の医師・佐野諒元、次いで横浜の西洋医・近藤良薫に師事。アメリカのD・Bシモンズからも学ぶ。

英之助の手先の器用さを見込まれ、歯科医学を学ぶ決心をする。小幡徳次郎は「士人の業にあらず」と反対だった。塾友や師らが歯科医が有望であり、英之助が適材であると説得し、了解を得た。アメリカ人歯科医セント・ジョージ・エリオットのもとで西洋歯科医学を修める。

1874年に新制度「医制」が布達されたが、歯科はなく「口中科」となっていた。英之助は「歯科試験」を請願し、認められ、その試験に合格した。西洋歯科医学に基づく日本初の歯科医師となった。銀座に歯科診療所を開業し、小幡式治療椅子を開発するなど、草創期の西洋歯科学の発展に大きく寄与した。歯科医開業免許取得の第一号である。

1878年に歯科医を開業した高山紀斎は、慶應義塾学び、アメリカ留学中に歯科医療に感銘を受け、帰国後医業免許を取得し開業する。高山は歯科医師試験受験のための私塾「高山歯科学院」を設立した。現在の東京歯科大である。この学院の講師の血脇守之助は野口英世をこの学院のスタッフとして収入の道をひらくき、野口の左手の再生手術をとりはかるなど生涯にわたり、援助を惜しまなかった。野口英世は歯科から出発したのである。

中津出身者は、東京の慶應義塾や西洋歯科医を目指し小幡英之助の門下生となったものが多かった。小幡門下生は全国に広がり、歯科学会は門下生を中心に発足している。ここで思い出すのは、私の父方の祖父は、歯科医と薬剤師の二つの資格を持っていたと父から聞いたことがある。祖父の治療で痛い目にあった語っていたが、祖父は小幡英之助の影響を受けていたのだろうか。中津は歯科医の生産地という評価もある。

中津に帰ると私は必ず、中津城あたりを散策する。その公園の少し高いところに銅像が建っている。それが小幡英之助だった。1937年に建立されたが戦時下の金属供出でなくなった。1966年に再建された。今回、小幡英之助という故郷の先達のことがわかった。

一緒に上京した中上川彦次郎は慶應義塾を経て、三井財閥で大活躍した。小幡英之助は歯科医師の鼻祖となったのだ。二人とも福沢諭吉の影響を受けて大成した人物だ。銅像には後の世代にその功績を伝える意義があるのだ。その銅像の記憶が無ければ、この文章を書いていないだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?