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「名言との対話」4月22日。横山エンタツ「自分には芸の力がない」

横山 エンタツ(よこやま エンタツ1896年4月22日 - 1971年3月21日)は、大正・昭和期の漫才師俳優

兵庫県三田町横山の生まれ。1928年頃、「横山エンタツ」を芸名とする。姓は出身地の横山。当時住んでいた蔵前の東京高等学校の煙突のように、やせた風貌であったことから、「エンタツ」とし、横山エンタツとなった。エンタツは、大阪の煙突(エントツ)のなまりである。花菱アチャコと組んで漫才を始めた。従来の和装と鼓の音曲を用いた萬歳と違って、2人の背広姿のテンポのいい会話だけで構成した舞台は「しゃべくり漫才」と呼ばれ、サラリーマンを中心に人気があり、わずか3年9カ月のコンビであったが、一時代を画した。

「漫才」のテーマは、「早慶戦」、「僕の家庭」、「親と子」など、当時の世相や話題などの新しいネタが多かった。私も子どもの頃、「エンタツアチャコ」の漫才をラジオやテレビで楽しんでいた。この二人のコンビは近代漫才の祖である。

エンタツは、低俗で下品な万歳を嫌い、新聞などをヒントにした時事ネタを盛り込んだ漫才をつくった。エンタツアチャコは会話だけの新しい「漫才」をつくったのだ。「きみ」「ぼく」という標準語の会話、背広姿などは新鮮だった。二人のインテリ万歳はサラリーマンに人気がでる。ちょび髭を二本指で押さえ、「ハッハー、照れくさー」というギャグだった。エンタツは「ボケ」、アチャコが「突っ込み」の役割だった。エンタツの弟子の一人が、漫才師から大阪府知事になった横山ノックである。吉本興業の座長をつとめた花紀京は次男だ。ラジオ時代の幕開けにもあたり、エンタツアチャコのコンビは人気は全国的になっていった。

プロ野球より人気のあった早慶戦の見物を扱った「早慶戦」、東京・横浜・名古屋・京都、そして大阪の繁華街の描写から始まる「親と子」、東映の「エンタツアチャコの人生は六十一から」、食堂で働く同僚のとしての演技、また霧島のぼる相手のコントなどの音声や動画をみてみたが、なかなか面白い。

戦後は、NHKラジオで「エンタツ」の冠をつけた番組をもっており、お茶の間を楽しませている。相棒のアチャコは戦後、スターダムにのし上がっていく。漫才時代はエンタツが売れていたが、舞台・テレビ時代はアチャコの独壇場になった。「天才」といわれたエンタツも活躍したが、アチャコとは差がついていく。次男の花紀京には「自分には芸の力がない」と本音を語っていたそうだ。芸人の栄枯盛衰はよくみるところだが、2人で一組の漫才は、かならずどちらかが上になっていくから、世間も目も厳しくなりし、売れなくなった方の心にも微妙な影を落とす。芸人の世界も厳しいものがある。

2人が始めた近代漫才は、現代の漫才ブームに続いている。現在では落語よりも下に見られていた漫才は、地位を確立し、芸能人を輩する宝庫になった感もある。伝統のある芸を改革し、新しい分野を築いた横山エンタツの功績は大きなものがある。

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