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「名言との対話」3月15日。山本嘉次郎「俺はカツドウヤだ。映画人などではない」

東京銀座生まれ。慶應義塾術大学中退し映画界へ。1924年「熱火の十字球」で初監督。1926年に日活金曜会の一員にかわりシナリオを書く。1934年日活太秦からPCL(後の東宝)にうつた。監督としてエノケンのオペレッタを多くの見事な映画作品にしあげた。1942年には、軍部からの要請で「ハワイ、マレー沖海戦」を発表し、歴史的ヒットを記録した。戦後は娯楽作品を発表する一方で、ラジオやテレビ番組にも多く出演している。

山本嘉次郎『カツドウヤ水路』(筑摩書房)を読んだ。

慶応時代から山本はオペラ作家になるのが夢だった。オペラの台本を書き、作曲をし、演出をし、指揮を取ると言うことを一生の目標としていた。しかしそうはならなかった。助監督として向島撮影所に入社。時代は活動写真から映画への過渡期であった。日本映画の黎明期であったのだ。山本は脚本も書けるし役者もやれるし監督もできる多彩な才能があり大活躍していく。
東宝の監督として「夫の貞操」、「エノケンのちゃっきり金太」、「藤十郎の恋」「綴方教室」、「馬」など優れた作品をつくった。山本監督の特徴は、作品の多彩さにあった。

山本嘉次郎は8つほど年下の黒澤明を助監督として起用している。もともと画家を目指していた黒澤であったが、生活のためやむなく映画界に入ろうとした。この面接で山本は反対のあった黒澤を強く押したのである。黒澤明の自伝でも、「馬」をめぐる逸話や、黒澤の入社時のエピソードが出てくる。もし黒澤が映画界に入っていなかったら、日本の映画界は全く違った姿になっていただろうと思うと不思議な感じがする。そして三船敏郎が俳優になるときにも山本は後押ししている。人物や才能を見極めることができた人だったのだろう。

映画において監督の力は絶大で、監督とか先生と呼ばれることが多いが、「ヤマさん」と慕われる人格者でもあった。そしてこの人は何でも知っていた。名前をもじって、「ナンデモカジロウ」と揶揄されるほども物知り博士でもあった。

太平洋戦争が突然始まった時、そんなバカなことがあるはずがないと思っていた。一体何のために戦っているのかその根本が全く納得がいかなかった。ズルズルと落ち込んでいくような感じだった。そしておそらくは負けるであろうと思っていた。戦意高揚の「ハワイ・マレー沖海戦」は1億人の人が見たといわれる大ヒット作になった。しかし当時の人口からみるとこの数字はまゆつばだ。

山本嘉次郎と言う人の名前と姿は、私もラジオやテレビで見聞きしていた気がする。博学の人であったと言う印象を持っている。ラジオで明日のクイズ番組となってた「話の泉」と言う番組があった。子供の頃、それを聞いていたのである。

山本は「カツドウヤ」と言う呼称が好きだった。自分はとりすました「映画人」ではないという。カツドウヤとは、山本に言わせれば、仕事のためならたとえ火の中、水の中という人種のことである。他の世界から蔑称のように聞こえるが、そうではない。自身を卑下するいい方でもあるが、実は誇りでもあるのだ。

映画は、活動写真と呼ばれていた。解説のトーキーという仕事も花形だった。「活動」屋、をカタナカにしている。政治屋といういい方と同じ使い方である。「映画は人間の生活の記録であり描写である」が山本嘉次郎の映画観だ。

星川清司『カツドウヤ繁盛記-大映京都撮影所』という本がある。この人は1921年生まれで山本嘉次郎より20年程若い。シナリオライターを経て直木賞を受賞した作家である。永田雅一、大河内伝次郎、長谷川一夫らがでてくるが、「カツドウヤ」の世界を残そうとした人のようである。

明治から大正にかけて「活動写真」といった。動く写真をみせる。それが大正時代後期には映画となった。山本は、芸術に成りあがった「映画人」なんかではない。俺はカツドウヤだ、という心意気を感じさせる。映画の創成期の混沌とエネルギーを懐かしんでおり、その世界に生きたことを幸せと感じている姿が浮かんでくる。こういった先達の存在によって、その後に、次の世代の黒澤らを代表とする映画の隆盛期を迎えるのである。人が歴史をつくり、歴史が人をつくる。


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