「名言との対話」4月2日。飛鳥田一雄「タイじゃなくて、マスを釣ってこい」
飛鳥田 一雄(あすかた いちを、1915年4月2日 - 1990年10月11日)は、日本の政治家。衆議院議員、横浜市長、日本社会党委員長を歴任した。
5歳、小児麻痺を契機に一雄をイチオと読むようになる。中学2年から杖をつく。中学時代からマルクス・ボーイとなった。弁護士、市議と県議を3年。代議士を4期10年経験。
1963年、「厚い壁がさえぎっている。厚い壁が砕かれるだろう。厚い壁のこなごなは、やがてきれいに除かれるだろう」と挑戦の決意をあらわし、横浜市長に当選する。同時期に全国で革新首長が続々と誕生し、飛鳥田は革新首長のリーダー的存在と見なされるようになった。1964年には全国革新市長会を結成し、会長となった。 4期15年の任期を全うし、際立った個性をもつ今日の横浜市の基礎を作り上げた。
飛鳥田市長時代は六大事業が中心だった。みなとみらい21をはじめとした都心部強化事業、これと連動した金沢地区埋め立て事業、港北ニュータウン事業、幹線道路事業、地下鉄事業、ベイブリッジ事業。外にも横浜スタジアムの完成に漕ぎつけ、1978年には日本社会党委員長になっていた飛鳥田が始球式を行っている。
『生々流転 飛鳥田一雄回想録』の最後にある関係者の座談会では、「市政を身近なものにした」「自治体に自信をつけさせた」「横浜方式」「時代の教師」という高い評価をもらっている。私の記憶でも革新市政を担った飛鳥田一雄は、華々しい革新市政の代表だった
「ボクの政策は、マルクスがウエーバーを着て歩いているようなもんさ」「行政の職人としてものを言うけど、こっちは市民の常識、素人の発想でいくわけさ」「保守と革新じゃあ、同じ首長でも困難さが違う」「抜擢して喜ばれても三ヶ月だけど、恨まれたら一生だからね」(人事は難しい)「市政をうまく進めるためには市民の間で多数派を占める必要がある。、、広報の充実とマスコミ対策だよ」
1977年、「原則は松の木の根の如く、対応は柳の枝の如し」と名言を吐いた成田知己委員長の説得で、日本社会党委員長に就任。横浜市長時代の退職金として、一般職員の基準額である1,592万円のみ受給し、市長としての特別手当分1億2,888万円を返上した。
全党員による公選で委員長に就任し、1979年、総選挙で東京一区でトップ当選。しかし社会党改革は難しかった。清新な党を目指したが派閥の存在に負けた。1983年の参院選の途中で「もう引き時だ」と決心する。5年九ヶ月その職にあった委員長を辞任し、石橋政嗣が後継となった。「いま一番気になるのは、人々が情熱を失ってしまっていること。政治は理論であると同時に、情熱なんだ。それを高度成長の中でみんな失ってしまった」。政界から引退し、市民派の弁護士として活躍した。1990年、75歳で死去。
心残りのない横浜市長時代と、内心忸怩たるものがある社会党委員長時代の二つが飛鳥田の主戦場だった。市長という地方の仕事は「突破と創造」がテーマであったが、政党委員長という中央の仕事は「均衡とまとめること」が課題であり、存分には成果をあげられなかった。
冒頭の「タイとマス」の意味は、希望と決意の違いである。「やりたい」という希望はダメだ、「やります」という決意をもって仕事をせよ。この言葉は庁内で語り継がれているようだが、課題解決に向けての気迫の重要さを示している。 会議の議事録でも感じることだが、「、、という意見があった」や「、、と決まった」など受け身のものが多いが、私も「、、と決定した」など気合のこもった議事録を書くことを指導してきたつもりだ。それによって組織の動きが速くなるからだ。議事録ではない、トップの指示書なのだ。飛鳥田市長の考え方に共感する。
(今日から、ニューヨークのメトロポリタンミュージアムの絵画を使います。この3月から使えるようになりました。朗報です)
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