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「名言との対話」9月19日。大城立裕「今の日本の為政者は沖縄を犠牲のままにしておくことに痛みを感じていない。いまだ続く差別の構造は令和へ持ち越された宿題だ」

「名言との対話」9月19日。大城立裕「今の日本の為政者は沖縄を犠牲のままにしておくことに痛みを感じていない。いまだ続く差別の構造は令和へ持ち越された宿題だ」

大城 立裕(おおしろ たつひろ、1925年9月19日 - 2020年10月27日)は、日本の小説家。

1925年沖縄生まれ。沖縄県費生として東亜同文書院大学予科に入学するが、兵役、敗戦で中退。基地勤務、高校教師を経て、25歳以降は琉球政府・沖縄県の公務員生活を送る。経済企画課長、通商課長、公務員研修所長、沖縄史料編集所長、県立博物館館長を歴任し、定年退職。
この間、芥川賞を受賞した後は、琉球・沖縄の歴史と民俗をテーマとした前近代史、近代史、戦後史にわたる作品を書き続ける。2002年、77歳で全集を勉誠出版から刊行。受賞歴は、平林たい子賞、紀伊国屋演劇賞特別賞、紫綬褒章、沖縄タイムス賞、琉球新報賞、沖縄県功労賞、日本演劇協会演劇功労者表彰、2015年「レールの向こう」で川端康成文学賞になる。2019年、井上靖記念文化賞。

2015年に読んだ『琉球処分』(上下巻)。著者は「カクテル・パーティ」で芥川賞を受賞した作家である。沖縄出身では初めての快挙だった。この本は1968年に単行本として出版されたが、もともとは1959年から琉球新報に連載したものである。連載当時はあまり注目されなかったが、1972年の本土復帰の前後に読みなおされた。

1872年から1880年までの8年間の、沖縄が明治政府のもとで強制的に日本に組み込まれたプロセスを描いた物語だ。歴史は事実の羅列だけでは、理解が不足する。その時代に生きた人々の吸った空気、ざわめき、憤り、友情、志、、などが記されていないからだ。この小説を読む中で、日本政府の要人たちと、対応した琉球の人々の人心とその息遣いを感じることができたように思う。これが小説というものの効用である。

琉球は、長い間、日本と中国の両方に属す両属国家であった。処分官・松田道之はじめ明治の近代国家を建設中の日本政府の官僚たちは、長い琉球の歴史に敬意を払いながら、穏健に日本政府の中に組み込もうとする。大久保利通、伊藤博文などが松田の上司だ。

「内政に似てしからず、外交に似てしからず、微妙な国際的駆け引きのなかで、純情らしくあるいは老獪らしい琉球の人士を相手の心労」に時間をかける。しかし中世のままの存在であった琉球との交渉の根気くらべに負けて、最後は、強硬策をとり、王(藩王)を上京させ華族に列させて、日本の中に組み入れてしまう。この過程を克明に書きながら、歴史の転換期の当時の関係者の苦悩を描いている。

若い主人公は最後にこう思う。「歴史を変えることはできない」といま言ってしまってはいけないのだ。たとい、こんな平凡な事務をとりながらでも、、、疑う自由があるかぎり、まだなにかを生み出すことができないとは限らないのだから、、。琉球と沖縄の人々の粘り強さ、忍耐づよさ、我慢強さ、しぶとさを垣間見る思いがする。

沖縄出身の佐藤優は、解説の中で普天間問題は「平成の琉球処分」と沖縄は受け止めていると語っている。「はねかえしてもはねかえしても寄せてくる」ような静かな抵抗を沖縄から受けるだろう。その抵抗が繰り返す中で、日本の国家統合が内側から崩れ出す、その過程が始まっていると警鐘を鳴らしている。沖縄問題の根源に迫る名作である。

小説「琉球処分」を書いた大城立裕が、川端康成文学賞を受賞したというニュースをみたので、興味が湧いて受賞作の載った「レールの向こう」(新潮社)という単行本を読んだ。

「レールの向こう」という短編小説は、大城には珍しい短編の私小説である。脳梗塞をわずらった妻の介護と、亡友の思いとからめた作品となった。それが独自の普遍性を生んだ。大城は数十年間にわたる作家生活で「沖縄」にこだわってきて、「沖縄の私小説」を書いていますと言ってきたが、これらの作品で、私小説の普遍的な存在が見えたそうである。

自身の病気を扱った「病棟の窓」、縁者をモデルにした「四十九日のアカバナー」、甥をモデルにした「エントゥリアム」、フィクション性の薄い「天女の幽霊」など。いずれも沖縄の風土と日常が匂ってくるような作品である。

公務員勤めをしながら小説を書くという生活を始め、定年退職をした後も続けてきた、と「レールの向こう」の中で述懐しているように、42歳で「カクテルパーティ」で沖縄初の芥川賞を受賞するなど、この人は二足のわらじを履き、そして60歳の定年後は30年以上にもわたって文筆活動をつづけているのだ。そしてなお新しい境地を拓いた私小説で川端賞を受賞した、という事実に感銘を受けた。

大城立裕は、作家としては、宮仕えをしながら30年、自由になって35年ということになる。このような人生の先達の姿に粛然とする。2020年10月27日、大城は95で永眠。

「いまだ続く差別の構造は令和へ持ち越された宿題だ」。日本人が心すべき言葉である。

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