見出し画像

「名言との対話」2月26日。五社英雄「なめたらいかんぜよ!」

五社 英雄(ごしゃ ひでお、1929年2月26日 - 1992年8月30日)は、日本の映画監督、脚本家、演出家。

明治大学商学部を卒業し映画監督を目指すが叶わず、近い業界としてマスコミのニッポン放に入社。フジテレビへ移りTVドラマを演出し、数々の人気ドラマを手掛ける。その後『三匹の侍』『雲霧仁左衛門』『鬼龍院花子の生涯』『極道の妻たち』『吉原炎上』などアウトローを主人公とした作品を中心に名作を生み出し、映画界のヒットメーカーとして活躍する。1985年、「五社プロダクション」を設立。晩年は癌と闘いながら撮影活動を続け、『女殺油地獄』が遺作となった。
主なテレビ作品。1959『刑事』、1959『やせ犬』、1960『トップ屋』、1960『ろくでなし』、1960『虫けらざむらい』、1960『むしけら』、1961『いくじなし』、1961『夜に聞く』、1961『密航者』、1961『ゼロの焦点』、1961『煮えた欲情』、1961『宮本武蔵』、1962『ダニとダイヤモンド』、1962『夜を探せ』、1963『季節のない街』、1963『三匹の侍』、1965『甲州遊侠伝 俺はども安』、1965『刑事』、1967『眠狂四郎』、1970『夜のかげろう』、1970『雪乃丈変化』、1970『新・三匹の侍』、1972『岡っ引どぶ どぶ野郎』、1973『ジキルとハイド』、1973『無宿者』、1973『唖侍 鬼一法眼』、1982『丹下左膳 剣風!百万両の壺』。 主な映画作品。1964『三匹の侍』、1965『獣の剣』、1966『五匹の紳士』、1966『丹下左膳 飛燕居合斬り』、1966『牙狼之介』、1967『牙狼之介 地獄斬り』、1969『御用金』、1969『人斬り』、1971『出所祝い』、1974『暴力街』、1978『雲霧仁左衛門』、1979『闇の狩人』、1982『鬼龍院花子の生涯』、1983『陽暉楼』、1984『北の蛍』、1985『櫂』、1985『薄化粧』、1986『十手舞』、1986『極道の妻たち』、1987『吉原炎上』、 1988『肉体の門』、1989『226』、1991『陽炎』、1992『女殺油地獄』。以上に見るように、 怒涛の仕事量であり、かつ話題になった作品も多い。私も学生時代から、五社の作品はよくみている方だ。しかし「賞」には恵まれなかったようである。

『五社英雄 極彩色のエンターテイナー 文藝別冊』(春日太一)では、関係者へのインタビュー42本が掲載されいて、五社の人柄と仕事ぶりが垣間見える。平幹二朗「『三匹の侍』のおかげで日本中に知られる俳優になりました」。安藤昇「五社さんは、表と裏の狭間で生きていた」。竹中直人「「アニキさんのまんまでよござんすよ」は一生の言葉です」。本木雅弘「私にとって五社組は「男として磨かれる場所」でした」。女優はどうか。かたせ梨乃「「頭で芝居したら絶対ダメだよ」それが五社学校初等科の卒業証書でした」。夏木マリ「一回ふっ切れると、女って強い」。名取裕子「監督は可愛らしい少年でした」。藤真利子「私、とり憑かれやすいんです」。

座右の銘は井伏鱒二の名訳「花の嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生さ」で墓石に刻まれている。 「憤怒の人生を、疾風迅雷の如く駈け抜けた鬼才」、「日本のドラマと映画を変えた鬼才」、「極彩色のエンターティナー」などと表現されている五社英雄の心意気をあらわす言葉である。そして再起をかけた渾身の作品であった「鬼龍院花子の生涯」(宮尾登美子原作)で、台本にはなかった「なめたらいかんぜよ」というドスのきいた啖呵を即興で夏目雅子に切らせて流行語となった。この作品では夏目雅子はブルーリボン賞の主演女優賞をとり、宮尾も流行作家となっている。「なめたらいかんぜよ」、この台詞はアウトローの世界を描いた映画監督・五社英が立ち向かった仕事のエネルギーの源であったと理解しよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?