「名言との対話」12月29日。南方熊楠「物や心を個別に理解するのではなく、その関係性を理解したい」
「名言との対話」12月29日。南方熊楠「物や心を個別に理解するのではなく、その関係性を理解したい」
南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者。
和歌山県出身。南方熊楠は明治維新の前年に生を受けている。13歳で「動物学」という本をつくり、「宇宙諸体森羅万象」にして、これを見るにますます多く、これを求むればいよいよ繁く、実に涯限あらざるなり」という博物学宣言をしている天才は、17歳で入った大学予備門では、夏目漱石、正岡子規と同期だった。
「世界を自分の目で見たい」「僕も是から勉強を積んで、洋行すました其後は降るあめりかを跡に見て、晴日本へ立帰り、一大事業をなした後、天下の男といわれたい」と言い、若き日に地球上のさまざまな場所を移動した。
19歳、渡米。西洋近代思想、植物学の方法論を学ぶ。20歳、サンフランシスコ。24歳、フロリダ、キューバ。隠花植物。25歳、ロンドン。26歳、大英博物館。比較民俗学。科学雑誌「Nature」に「東洋の星座」を発表。土宜法龍と親交。28歳、大英博物館の図書館で民俗学、博物学、旅行記を筆記。「ロンドン抜書」は52冊。30歳、孫文と会う。34歳、帰国。那智山周辺−−南方マンダラ「哲学的思考」。37歳、田辺へ。39歳、結婚。44歳、柳田國男と文通。59歳、摂政宮(昭和天皇)に進講。変形菌標本90点。62歳、昭和天皇に進講。74歳、永眠。
投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、平凡社編集による全集が刊行されいる。英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した人物である。「歩く百科事典」と呼ばれ、熊楠の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、当時の3奇人とされるなど数々の逸話を残している。
柳田國男とともに日本の民俗学研究を立ち上げた人物。日夜、生物採集に没頭した人物。エコロジーという言葉を日本に最初に紹介した人物。主著は『十二支考』『南方随筆』など。、、、。熊楠は知的巨人だった。
南方熊楠と親交のあった生物学者の昭和天皇は1929年の和歌山への行幸時に、粘菌や海中生物についての御前講義を行った。熊楠は粘菌の標本をキャラメル箱に入れて献上した。後に天皇はあのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。1962年に再び和歌山を訪れた天皇は、神島を見て「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠んだ。
真言密教の発想を借りて、自然科学から人文学までのさまざまな学問分野を総合する学問モデルをつくり出そうとした、これが世にいう南方マンダラである。
「世界を自分の目で見たい」「僕も是から勉強を積んで、洋行すました其後は降るあめりかを跡に見て、晴日本へ立帰り、一大事業をなした後、天下の男といわれたい」と言い、若き日に地球上のさまざまな場所を移動した。柳田國男とともに日本の民俗学研究を立ち上げた人物。南方マンダラと呼ばれる思想を深めた人物。日夜、生物採集に没頭した人物。エコロジーという言葉を日本に最初に紹介した人物。、、、。熊楠は知的巨人だった。
近代科学は一つの原因は一つの結果を生むという考え方だが、熊楠は「因果関係は複雑に関連しあっているために、どのような場所にいてもすべての現象と何らかの関係を持つことになる」と述べていて、「今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みがあるか)、縁が分からぬ。この縁を研究するのがわれわれの任なり」。南方は神羅万象の関係を研究したのだ。
熊楠は若き日に「物と心の接触によって生する事の世界」を学問の対象と定めている。「事の学」の図がある。物の円と心の円の重なったところに「事」がある図である。この事は人界の現象であり、心界が物界とまじわって初めて生ずるはたらき。因果。「物や心を個別に理解するのではなく、その関係性を理解したい」。夢は事の一つの例である。
真言密教の発想を借りて、自然科学から人文学までのさまざまな学問分野を総合する学問モデルをつくり出そうとした、これが世にいう「南方マンダラ」である。
関係性が世界を作り上げている。すべてが関連しあっている。この世は科学のいう因果関係だけで説明はできない。偶然と偶然が重なり合って、いつか必然と感じられるようになる。偶然と必然が「縁」で関係づけられる。今はそう理解しておこうか。
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