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「名言との対話」3月29日。小泉文夫「日本音楽は日本人に限らず世界の大切な財産だ」

小泉 文夫(こいずみ ふみお、1927年3月29日 - 1983年8月20日)は、日本の民族音楽学者。4月4日の届け出だが、実際に誕生した3月29日をここでは採用。

東京生まれ、東京大学文学部で美学を専攻。在学中に、吉川英史講師の講義に接して日本伝統音楽の研究を志す。1956年、 東京大学大学院の修士論文「日本伝統音楽の研究に関する方法論と基礎的諸問題」(後の『日本伝統音楽の研究』)では、日本の民謡を研究対象として比較音楽の観点から日本音楽の音階構造を明らかにした。

1956年から59年まで、インド政府給費留学生として、マドラスとラクナウの音楽学校でインド音楽の実技を学びながら、調査も行う。インド留学を出発点として、ナイル河上流の民俗音楽(1964)、カナダとアラスカのエスキモー(1967-68)、インドネシア(1972)ほか、本格的なフィールドワークが始める。

国内はもとより調査地は三十数カ国におよび、研究成果を多くの著作やレコード、解説書にまとめた。早くからポピュラー音楽研究の重要性を指摘するなど、伝統的なアカデミズムにとらわれない柔軟な研究姿勢であった。

東京藝術大学教授(1959-1983)として後進を育成するなど、国内外の多くの大学で教鞭をとった。また「アジア伝統芸能の交流」プロジェクト(国際交流基金主催)ほかの企画監修にたずさわり、音楽による文化交流にも大きく貢献ししている。自身が企画するラジオ番組「世界の民族音楽」など、さまざまなテレビやラジオ番組に出演し、未知の領域だった諸民族の音楽を一般にも紹介した功績はきわめて大きい。

『民族音楽研究ノート』(青土社)を中心としてサントリー学芸大賞したときの選評は、「西洋音楽こそが手本であり、唯一のすぐれた音楽であるとする戦後の風潮のなかにひとつの爆弾を投じた。日本の伝統音楽が西洋音楽とは異質な、しかしそれに劣らないすぐれた構造と美的価値を持つものであることを強く主張して氏は立ち上ったのである」だった。

小泉文夫『日本の音 世界の中の日本音楽』(青土社)を読んだ。オビで坂本龍一は、「小泉文夫はぼくの音楽に対する態度に決定的に影響を与えた人です。実は音楽にとどまらず、あらゆる文化・人を公平に見るということを教えてくれた人です」とその早い死を惜しんでいる。以下、小泉の主張の一部。

外国から来た楽器を日本人は好みに合うように変えている。三味線は、中国の三弦、沖縄の三線と比べると、蛇皮ではなく猫の皮を使った。そして糸に「さわり」を作り、琵琶で用いる大型の「撥」を用いて、まったく違った音色を出している。日本では江戸時代からの伝統音楽と輸入した西洋音楽は並列的に存在しているのが特徴だ。
現代日本の音楽を代表するのは、歌謡曲でその主流は演歌だ。
絵画では遠近法ではなく、線の持つ表現力やニュアンスを重視した。声を装飾音をつけてから一本引きに長く引き最後に力を入れて音を下げる。書道でも「一」という字を書くのと同じだ。

絵画、彫刻という芸術分野、小説、詩歌などの文学では、近代になっても日本の伝統の復興運動が大きなうねりとなって活発であったが、音楽の世界は、西洋に押され続けてきた。そこからのパラダイムシフトを担った革命家が小泉文夫だった。古賀政男が日本のメロディの多様さは世界一だというなど、断片的には聞こえてくるし、最近のテレビ番組で世界中の人がカラオケで歌謡曲を唄っている姿を見聞きする。また、ユーチューブでも心酔したインドネシアの若い女性が日本の歌を歌いこなして絶賛されている姿をみることもある。小泉は日本の伝統絵画の復活を仕掛けた岡倉天心と横山大観の二人の役割の人だったのかもしれない。残念なことに56歳でその志半ばで世を去っている。

「とてつもなく魅力的で、迫力に溢れた人であったらしい」と広瀬大介教授(青山学院教授)が語っているように、小泉が育てた俊秀たちが活躍している。そして東京芸大は、小泉が収集した音楽資料のコレクションを「小泉文夫記念資料室」として1985年にオープンしている。この資料室が提供しているフィリピンの竹製楽器「バリンビン」、「ガバン」、インドネシアの竹製楽器「アンクルン」という楽器の演奏をユーチューブで聴いてみた。この人は音の民族学者だ。

岡田真紀『世界を聴いた男:小泉文夫と民族音楽』(平凡社) という伝記がある。「世界を聴いた男」というタイトルは小泉文夫の仕事を端的にあらわしているように思う。小泉文夫は音楽分野の革命児だ。活躍の頂点で突如世を去ったが、その志は受け継がれている。ここにも「日本とは何か」「日本人とは何か」という問題意識を持った人がいた。

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