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「名言との対話」5月25日。川上源一「足元が明るいうちにグッドバイ」

川上 源一(かわかみ げんいち、1912年1月30日 - 2002年5月25日)は、日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長。ヤマハ発動機株式会社創業者でもある。

旧制高千穂高等商業学校(のちの高千穂大学)卒業後、日本楽器製造(現:ヤマハ)に入社し、社長に就任し、ピアノ生産量を世界一にする。ヤマハの伝統戦略はこうだ。赤ちゃんが生まれると毎月1000円づつ貯金をしてもらう。4からヤマハ音楽教室でピアノを習い、10歳になった頃に溜まったお金でピアノを買うというストーリーをつくった。我が家もその通りの道筋で子どもたちはピアノを弾けるようになったし、ピアノは今でもリビングに鎮座している。そおういった戦略のおかげでピアノに親しむ習慣が根づいた。日本は今ではピアノの普及率は世界一となっている。また開発した電子オルガン「エレクトーン」は、電子オルガンの代名詞にもなった。

1955年にヤマハ発動機を創業し社長を兼務し、オートバイ、スポーツ用品、レクリエーションなど各種事業を創業した。会社の休日を「土日」ではなく、「日月」にし、レジャー産業を社員に教育している。「慎重に急げ」はオートバイ事業に進出した時の名言である。「日本も復興してきたたら、レジャーが産業になる」と考え、社長就任後、わずか1年でオートバイを製造販売し大ヒットさせた。川上は強烈なイノベーターであり、大きな成果を挙げた「ヤマハ中興の祖」である。

川上は次々と直面する課題に対して即時の決断と素早い実行を行ってきた。それには次のような心構えがあったのだ。「社長は戦国時代の大名と一緒で、すべて背水の陣でものを考えている。その都度、その都度、私自身、自分の決心に時間をかけたことはない」「常に自分の事業の姿がどうならなければならないか、という見通しを持っていなければ的確な意志決定はできない」。

『社長の椅子が泣いている』(講談社)を読んだ。この本は川上源一の指名を受けてヤマハ楽器の社長になった河島博について書かれた本だ。兄は・喜好は本田技研工業の社長である。兄弟社長は珍しかった。65歳の河上源一は「明るいうちにグッドバイ」との名言を残して去ったが、数年後には好調な業績をあげつつあった後継社長を解任し、社長に復帰している。兄は「沈黙は金。日記に書いておけ。私は高く評価している、ご苦労であった」と伝えている。涙が出てくる愛情のこもった、そしてトップの進退をめぐ貴重なアドバイスで、読んでいて涙がでてくる。

「社長と副社長との間の距離は、副社長とヒラ社員の距離よりも遠い」という旭化成の宮崎輝の名言があるように、不満もあったのであろう。ヤマハは源一の父、本人、息子と3代にわたって経営を担ったこともあり、「川上天皇」にも世襲批判はあった。やはり事業のバトンタッチは難題である。さすがの川上源一も、引き際の魔術師とはいかなかったようである。

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