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「名言との対話」3月29日。羽仁五郎「自分の国だから我々は日本を批判するのだ。批判するのはよりよい日本をつくるためなのだ。批判の無いところに未来はない」

羽仁 五郎(はに ごろう、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。

群馬県桐生市生れ。東大帝大法学部入学、3か月後にハイデルベルク大でH.リッケルトに学ぶ。帰国後、文学部国史学科に再入学。1926年に羽仁説子と結婚。卒業後、1928年日大教授となり、三木清とマルクス主義理論雑誌「新興科学の旗の下に」を創刊。1929年プロレタリア科学研究所の創設に参加。1933年と1945年の2度にわたって検挙された。戦後の1947年から1956年まで参議院議員をつとめた。1968年に刊行した代表作『都市の論理』は、大学紛争時代の学生たちに大きな影響を与えた。

自由学園創立者の羽仁もと子の長女・説子は教育者だが、結婚した相手の森五郎が後のマルクス主義者であり一世を風靡した羽仁五郎であった。その夫婦の子供は映画監督の羽仁進であり、その子供が1964年生れのジャーナリスト・羽仁未央である。時代の先駆者として啓蒙的な人々が多いのが羽仁家の特徴である。

「『愛国心という言葉は悪党の最後の隠れ家』とは英国の哲学者の名言だが、『法と秩序』は腐敗政治家が人民の批判を非合法視するときの常用句だ。法と秩序と言い、法治国家と言うが、その実態は警察国家なのだ」

「言論の責任を取ることになってくれば、言論の自由なんていうものは保証できないんですよ」

私は大学時代、はやりだった『都市の論理』というぶ厚い羽仁五郎の著作に親しんだことがあるが、よくわからなかった。この本に触れたことで、都市問題研究会をつくろうと思い、「都市研」と呼ぼうと考えたが実現はしなかった。もし「やっていたら、どうなっただろうと空想することもある。

大学卒業後、私は30代の初めに「知的生産の技術」研究会に入会しスタッフになった。直後の会議で、羽仁五郎の名前を出したら、お前が電話をしろということになった。ご本人が電話口に出たのには驚いたが、趣旨の説明と最後に講師料の交渉も行った。「最近はタクシー代も高くなってのう」といわれ、少しアップしたのだ。講演の当日はたしか司会もした記憶がある。この大物との交渉で度胸がついた気がする。私にとっての初陣だったのでよく覚えている。

冒頭の言葉には、「無批判に日本の良さなどと言うのはナルシズムだ。鏡の中の自分の顔をながめていい気分になっているような馬鹿と同じだ」が続く。組織も同じだ。人も同じだ。自己満足をやめよ、自己に厳しくあれ。それが羽仁五郎の主張である。ナルシズムとはうぬぼれのことだろう。

「うぬぼれ・自信・謙虚・卑屈」という4つの態度の段階がある。うぬぼれ・ナルシズムはやめよ、卑屈になるな。われとわれわれがとるべき態度は、自信と謙虚の間にあるのではないか。


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