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「名言との対話」2月29日。山口喜一郎「日本語だけで日本語を教えるという教授法」

日本語教育者。明治5年4月17日、石川県鳳至 (ふげし) 郡輪島村(現、輪島市)に生まれる。1887年(明治20)石川県尋常師範学校卒業後、同県や東京で国語教育ののち、外地での日本語教育に一貫して従事した。1897年からは台湾、1911年(明治44)からは朝鮮、1925年(大正14)からは旅順、奉天、1938年(昭和13)からは北京 (ペキン) (新民学院教授)、1944年からは大連と、日本語教育に携わり、とくに日本語だけによる直接法の指導理論と実践の確立に努めた。第二次世界大戦後は、話しことばの教育の開拓に力を注いだ。昭和27年2月29日死去。著書に『日本語教授法原論』(1943)、『話言葉とその教育』(1951)などがある。[古田東朔]。

以上は「日本百科全書」の記述である。「外地での日本語教育」と「台湾」という語を手がかりにこの人のことを考えてみよう。

私の知識の中では、多湾訪問時に知った伊沢修二という名前が浮かんだ。伊沢と山口は接点があるのではないかという手がかりが浮かぶ。

伊沢修二は明治時代の教育者であり、1894年の日清戦争で清から割譲を受けた台湾の総督府民生局学務部長だった。1895年に地元の子弟対象の学校をつくるなど、精神の日本化を推進した。「優勝劣敗の世界において、各国互に相戦う武器は教育より外にない」。台湾における教育は日本語によって行うとして、人材を募集した。その一人が山口喜一郎であったようだ。山口は伊沢より19歳年少。伊沢は1897年に貴族院議員となる。後は山口に託した。

台湾の日本化について、伊沢は「教育者が万斛の精神を費し、数千の骨を埋めて、始めて其実効を奏すべき」とし、土匪の脅威に立ち向かっていく。混和主義による弾力的な現実主義であった。命がけの仕事であった。台湾では日本語がいまなお盛んであるのも、伊沢修二の計画と実践の賜物だったのである。その実践にあたったのが山口だった。

山口はそれまでやっていた漢文による対話法に限界を感じ、グアン法(直接法)を試みた。日本語だけで日本語を教えるという教授法を編み出して成功する。今でも台湾では日本語を話す人がいるのは、こういった施策の賜物である。

松永典子(九大教授)の「日本占領下の東南アジアにおける日本語教育」によれば、日本の国力の進展と日本語教育は切り離すことはできない関係にあるとされ、マラヤや北ボルネオなどでの日本語教育を論じている。限定的ではあるが、多民族をつなぐ共通語であり、そのことが逆説的に民族意識を喚起したとも指摘している。

山口喜一郎は、台湾で4年過ごした後、朝鮮、満州の旅順、奉天、そして北京でも日本語教育に従事している。外地における日本語教育の貴重な人材だったのである。

梅棹忠夫は、外国人の日本語習得熱はいまでも高いが、問題は漢字であるという。漢字がネックとなって日本語が大きく広がらない。それが日本文明の発信力が弱い原因でもある。ローマ字にすれば、容易に話し言葉はできるようになるということで日本語のローマ字運動を推進していた。第二日本語をつくれ、そうすれば同音異義の多い日本語は訓読み中心のわかりやすい日本語になるという主張である。日本語の問題は、日本の浮沈にかかわる問題だということであった。

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