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「名言との対話」5月3日。大塚久雄「絵画と地図」

大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年明治40年)5月3日 - 1996年平成8年)7月9日)は、日本経済史学者。

京都出身。三高から東京帝大経済学部卒、内村鑑三に師事。法政大学教授を経て、東京帝大教授。

専攻は英国経済史で、西洋諸国における近代資本主義、近代市民社会の研究で知られた。マックス・ウェーバー社会学カール・マルクス唯物史観論の方法を用いて構築した大塚史学は国際的評価を受けた。

大塚久雄『社会科学の方法 ヴェーバーマルクス』(岩波新書)を読んでみた。

ヴェーバーの『儒教とピュリタリズム』をめぐってーーアジアの文化キリスト教」を論じた章を興味を持って読んだ。以下、ウエーバーの所論の私の理解。

社会を対象とする社会科学は、自然科学と同じように、科学として成り立つか。分業関係は自然に成り立っている場合は、自然と同じようにみることができる。人と人との社会関係は物と物との関係としてあらわれる。だから、社会科学は科学である。

社会科学は、生き生きとした現実を写し取る絵画とは違い、現実を平面に記す地図のようなものであると大塚は言っている。社会科学には人間がいないという批判もあるが、表現方法が違うのである。

この論考の中で、「儒教とピュウリタリズム」の説明がよくわかる。中国の儒教と欧米のキリスト教プロテスタントの違いを説明してくれる。

この二つの精神が持つ「人間観」が全く違う。儒教は人格の感性に向かう。その頂点が徳を吸萎えた「君子」だ。ウエーバーはそれを「gentleman」と訳している。君子は書籍による教養と修養によって君子に近づいていく。

ピュリタリズムでは人は原罪を持っている堕落している。神に赦してもらうにはそういう自己を否定し、世界の理想に向かって変革していくために厳しい自己訓練を続けることが求められる。

儒教では君子は世界秩序の理法である「道」に従うことがよしとされるから、自己変革力が弱い。君子は教養と修養によって人間を完成させていく。外面的品位を重んじ、審美的である。楽観的世界観を持っており、身分の上昇やそれに伴う富も肯定される。

ピュウリタリズムでは、平民宗教が支配層を包み込んで全体を覆うようになっていった。現世を否定する悲観主義であり、そのために神の国に近づこうと世界の根本的な変革に向かう、そこに精神的エネルギーが噴出する。担っている職業によって、生産力を高め、民衆の生活を豊かにするという隣人愛によって神の国に近づくことで、神に救ってもらおうとする。それは内面の精神と一致する。そしてそのために富を蓄積することを肯定する。

以上、儒教は順応的であり、ピュウリタリズムは変革的である、ということになる。

このような理解と説明によって、大塚久雄の研究は、「大塚史学」と個人名を冠されるほどに歓迎され、それは欧米でも高く評価された。大学時代に内村鑑三の影響を受けたことも、研究の低層を構成しているのではないだろうか。

近代における欧米の躍進と中国の長い低迷の説明として理解できた。さて、武士階級の儒教、庶民の仏教、皇室の神道という三重構造の日本の明治維新のエネルギーの噴出について、大塚史学はどのような説明をしてくれているのだろうか。

大塚久雄の言葉の中で、現実を写しととる「絵画と地図」という比喩がでてくる。浅間山雄大さや夕映えの美しさは絵画で表現できるが、浅間山に登ることはできないとういう。登るためには白黒で描かれた地図が必要なのだ。それが社会科学だとの主張である。歴史小説歴史学の違いもそれにあたるということだろう。なるほど。

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