「名言との対話」11月10日。藤沢武夫「経営者とは一歩先を照らし、二歩先を語り、三歩先を見つめるものだ」
藤沢 武夫(藤澤 武夫、ふじさわ たけお、1910年11月10日 - 1988年12月30日)は、実業家。享年78。
茨城県結城市出身。旧制京華中学卒業後、戦中、戦後は福島県で製材業を営む。
1949年、39歳のときに4歳年長の本田宗一郎と出会い、ホンダに入社し、財務、販売などの経営を担当する。技術者である社長を助けて、ホンダを世界的企業に育て上げた。1973年に副社長を退く。同時に本田も退任し、最高の引退劇として大きな衝撃を与えた。本田は67歳、藤沢は63歳だった。
ホンダの躍進は、技術者・本田宗一郎と、経営者・藤沢武夫の合作だった。本田宗一郎は、1989年に日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たしたとき、既に亡くなっていた藤沢の位牌にメダルをかけ「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ。これは二人のものだ]
と語りかけた。このような逸話はよく耳にしたし、この二人に接した野田一夫先生からも話を聞いたことがある。また、本田宗一郎の伝記も手にして感銘を受けている。そこでも藤沢のことを本田も感謝をこめて語っていた。
今回、藤沢武夫『経営に終わりはない』(文春文庫)を読んだ。
出会いの時、本田は「金のことは任せる」と言い、「けれども何を創り出すかということについては一切掣肘を受けたくない、おれは技術者なんだから」と言われ、深い印象を受けている。「自分の持っている才能の限界を知りたい」藤沢は、本田も自分の持っている力を知りたかったと書いている。
藤沢は「本田宗一郎の壮大な夢を現実に生かすこと、それが私の仕事です」と考える。それから約四半世紀、この二人は二人三脚で本田技研工業を、世界のホンダに育て上げたのである。
二人が辞めるときの会話がある。「まあまあだな」「そう、まあまあさ」。「これでいいということにするか」「そうしましょう」。「幸せだったな」「ほんとうに幸福でした。心からお礼をいいます」「おれもお礼をいうよ、良い人生だったな」。それで引退の話は終わった。
藤沢は「経営」について次のように語っている。
創業者とふつうの経営者とは、ちょっと違うと思うんです。創業者はいわば一種のバクチ打ちですね。
創業者の奥さんはかなり度胸がよくなけりゃあならないと思いますね。
家庭を大事にしない人、奥さんを大事にしない男はだめです。
経営者とは一歩先を照らし、二歩先を語り、三歩先を見つめるものだ。
刻々と変化する情勢を適確にキャッチして、企業の中に入れ、組織のなかでこなして、それを安定させ、次の人にバトンを渡す。
重役とは一体なんだろうかといえば、未知への探求をする役です。
すべて本田宗一郎がいなくなったらどうするかというところから発想されたことです。
一将功成って万骨が生きなければならない。
われわれは、能力の高い人を常に探り出す仕組みを、考えておかねばならないんです。
藤沢武夫は「これ以上はないという人にめぐり会えた」という気持ちがあった。双方にとって邂逅ともいうべき幸運だったのだ。その幸運は、戦後日本の幸運につながっているのである。
「仕事をしたい」と渇望していたこの創業経営者は、「本田宗一郎の壮大な夢を現実に生かすこと、それが私の仕事です」という仕事を存分に果たした。その仕事とは「経営者とは一歩先を照らし、二歩先を語り、三歩先を見つめるものだ」ということに尽きるのではないだろうか。
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