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「名言との対話」5月23日。斎藤秀雄「まず型に入れ、そして型から出よ」

 斎藤 秀雄(さいとう ひでお、1902年5月23日 - 1974年9月18日)は、日本チェロ奏者指揮者、音楽教育者。

東京都出身。父は斎藤秀三郎といい、日本の英和辞書を初めて編纂した人である。

12歳からマンドリン、16歳からチェロを学ぶ。20歳からドイツ留学。25歳での帰国後は新交響楽団N響の前身)の首席チェロ奏者。翌年に指揮者デビュー、チェリストデビューを果たす。28歳、ベルリン留学。帰国後の終戦後に「子供ための音楽教室」を解説し、これが桐朋学園につながっていく。斎藤は、53歳のときに桐朋学園短大の学長に就任。65歳、日本指揮者協会会長。71歳、文化功労者
斎藤秀雄は日本の音楽史上、重要な人物でり、その名前は「サイトウ・キネン・オーケストラ」「サイトウ・キネン・フェスティバル」などに冠として残っている。そして死後には、妻の遺言にしたがって「斎藤秀雄メモリアル基金賞」ができて3億円が寄付された。チェロと指揮で若手の優れた人に、500万づつの賞金を出している。受賞者名簿には、大友直人の名前もみえる。

斎藤秀雄は指揮についてのシステムを確立し、指揮法を後進に伝えた唯一の日本人である。「音楽も言葉と同じで、主語あり、動詞あり、形容詞ありで、文法と同じに分析できる」と語っていた斎藤は、1956年に『指揮法教程』(音楽之友社)を刊行。英文法の理論書や、英和・和英辞典を独力で編纂した父・秀三郎と同じく、指揮法を体系化し、世界に誇る指揮法の文法を創り出したのである。

その方法を教育の場に持ち込んで、日本が誇る小澤征爾岩城宏之山本直純尾高忠明らを育てたのである。方法論が素晴らしかったのであろう。斎藤の功績は大きいものがある。

「まず型に入れ、そして型から出よ」が斎藤の指導法だった。「指揮法教程」は、「型」だった。その上で、「型」から出て楽団員たちの力を十分に発揮させるのが「斎藤メソッド」だった。弟子の山本直純の指揮者としての座右の銘は「名馬ムチいらず」だった。オーケストラが動きたいようにうまく乗ることが大事だという意味である。それは先生の斎藤秀雄の指揮法だった。

どの分野にも「型」がある。その型を身につけて、その型から離れよ。日本では昔から「守・破・離」の法則がよく知られている。型を守り、型を破り、型から離れていく。名人への道である。斎藤は、指揮法を神秘の名人芸に閉じ込めることなく、科学的に構造を解明し、人がわかるように法則化したのである。その「守る」べき「型」を創造し、その上に立って後進を育てた。その業績は誠に大きい。斎藤秀雄は創造の人であり、優れ教育者であった。



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