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「名言との対話」12月20日。岸田劉生「一見して人の心をうつものをかきたい。深い力で、そして見れば見る程深いものを。これが自分の為す可き仕事であり道である、、」

岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年明治24年〉6月23日 - 1929年昭和4年〉12月20日)は、大正から昭和初期の洋画家。父親は新聞記者実業家岸田吟香。享年38。

劉生は15人兄弟の第9子の四男。画家として著名。この人も何をやっても一流だった。落語もうまく、打ち込んだら真打ちという腕前だった。

『摘録・劉生日記』(岸田劉生著・酒井忠康編:岩波文庫)を読了。38歳で亡くなった岸田劉生の30歳の正月から5年間の毎日の日記である。文章もうまかった画家の代表書籍といってもよい。自分が描いた挿絵もうまい。友人たちと自宅に作った土俵でよく相撲をとっている。武者小路実篤木村荘八志賀直哉梅原龍三郎中川一政山本鼎倉田百三、など同時代の友人たちの名前が頻繁に登場する。娘の麗子ことの記述も多い。麗子は代表作品「麗子像」のモデルである。

関東大震災の様子の記述も生々しい。「ああ何たる事かと胸もはりさけるようである。家はもうその時はひどくかしいでしまった。もう鵠沼にもいられないと思ったが、これでは東京も駄目か、、、、。つなみの不安でともかくも海岸から遠いところへ逃れようと、、、」

  • 全力を尽くさなくてはならぬ、芸術の神の前にのみ自らの画を見せることを思え。

  • 「醒めよ、吾が冷き理性、醒めよ、吾が、強き意力、常に爾(なんじ)を欺(あざむ)きて、眠らせんとする、卑屈なる吾を鞭打て、吾は弱し、されど、吾は、吾自ら進まざる可らず。醒めよ!常に醒めよ!」

  • 他人に何と思われても自分は自分の仕事の世界をのこせばこれ以上の誇りはない。

「これからずっと続けたく思う。一冊、一年中の事がこの日記に記されたら不思議な味の本になる」と日記を書く事にした決心を語っている。その通りの本に結実している。

2009年に損保ジャパン東郷青児記念美術館で、「没後80年 岸田劉生 肖像画をこえて」をみた。「一体人間の顔程、画家にとっていろいろな美術的感興を興させるものは他にない」という岸田は、若いころ友人をモデルに肖像画を描きまくって「岸田の首狩り」「千人斬り」などと言われて恐れられた。岸田劉生は、「麗子像」で有名な画家である。会場では、自らを描いた肖像画と友人知人を描いた肖像画が多数並んでいたが、圧巻は自分の娘である麗子の子ども時代から16歳までを描いた絵だった。
岸田は日記をつけていたし、自画像を大量に残している。自分という存在の意味や意義を問う毎日だったのであろう。この自画像は30点ほど展示されていたが、ほとんどが22歳から23歳の間に集中している。細面で、眼鏡をかけ、耳が大きい。正面から、右から、左から、そして帽子姿もあるが、神経質そうな青年の顔である。16歳でキリスト教に入信した岸田は、絵を描くことが自らを生かす道だと感じて、白馬会の洋画研究所に入り、黒田清輝に師事する。20歳で信仰を捨てて、雑誌「白樺」を購読し、6歳年上の武者小路実篤と出会う。岸田はこの出会いを「第二の誕生」と呼んだ。実篤も気持ちよく付き合える友人、尊敬し合える友として岸田を大事にし、その交遊は生涯続く。死後も娘・麗子は武者小路を実篤を頼りにしている。

岸田は22歳で鏑木清方日本画を学んでいたシゲルという女性と結婚し、翌年麗子(1914-1962年)が誕生する。家族の写真が展示されていたが、妻は色白の美人だった。岸田は家族の記念日を大事にする人で、麗子の誕生日には写真館で麗子と家族の写真を撮るのが恒例となっていた。

岸田は日記も含めよく文章を書いたから、その心境がわかる。
「道を見ると、その力に驚いたものだ。、、、これこそ、自分の眼でみるものだ。、、セザンヌでもゴッホでもない、ということをよく感じた」
肖像画同様の心の経験で自然物にぶつかる事がで出来だした」
「見方が自由になり、また自然に帰って、さらに少し深くなっている。人間の顔の感じは、あるところまで出ている」(古屋君の肖像)
岸田劉生は、こういった文章を書いた28歳の頃に、ようやく自分自身になりきれたようだ。29歳では、「りっぱな芸術は、たいてい見ていると、シーンとしてくれる。、、、僕はそういう感じが自分の絵から感じられるまでは筆を置くまいと思っている」と決意を述べている。有名な「麗子座像」は、黒い闇の中で、黒い髪、赤と黄色の絞りのメリンスの着物、そして赤いリンゴをそばに置いた麗子は、細い眼で斜めを向いている。一か月半を費やした労作である。確かに、シーンとする感じの絵である。

有名な「麗子像」は27歳の時の「麗子肖像」という油絵が最初で、それ以降精力的に描き、これが岸田の代表作となっていく。愛娘を描いた絵が代表作として残るという幸福を得た画家はいない。「麗子肖像」「麗子六歳之象」「麗子坐像」「麗子微笑す」「麗子之像」「麗子立像」「麗子洋装之象」「麗子微笑之立像」「麗子微笑像」「三人麗子図」「「笑ふ麗子」「二人麗子図」「野童女」「麗子弾絃図」「童女象」など、麗子の5才から16歳まで膨大な作品群である。

そして最後となった「麗子十六歳之象」は、桃割れに結いあげた麗子の派手な衣装であったが、さらに卑近な赤で縁取られた、初期浮世絵的な作品である。これを最後に麗子像を終える。「麗子の絵は、私の美術鑑賞上の変遷とかなり歩を同じくしている」と岸田は語っている。

この娘・麗子が1987年に書いた『父 岸田劉生』では武者小路実篤が心のこもった序文を書いている。「劉生の事を知りたい人は是非この本は読まねばならない本だ」と書いている。最も近い肉親である麗子がみた父親岸田劉生の日常と仕事ぶりがよくわかる。

「自分はやはり仕事をしないと空虚になる。いい仕事をもっともっと仕度いと思ふ、、」
毎年の元旦には「余は三十七歳、シゲルは三十六歳、麗子は十四歳、、」という記述がかならずあり、微笑ましい。

自画像、友人・知人たちの肖像画、家族の肖像、6年間一日も休まず日記をつけ続けていたこと、その内容などをみると、岸田劉生は自意識の強い、周りへの愛情の深い人物だったように思える。

16歳でキリスト教に入信した岸田劉生は、絵を描くことが自らを生かす道だと感じて、白馬会の洋画研究所に入り、黒田清輝に師事するが、20歳で信仰を捨てて、武者小路実篤白樺派に傾いていく。

「一見して人の心をうつものをかきたい。深い力で、そして見れば見る程深いものを。これが自分の為す可き仕事であり道である、、」。愛娘・麗子の5歳から16歳まで膨大な作品群を描き続けた天才画家・岸田劉生は、人生遍歴を重ねながらとうとう、自分の歩むべき道を発見した。立派な芸術作品をみるとシーンという感じになることがあるが、一ヶ月半を費やした労作である有名な麗子座像は、岸田の気迫がひしひしと伝わってくるそのような作品である。為すべき仕事を為す、これが歩むべき道である。

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