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「名言との対話」5月29日。芦屋雁之助「どんくさい男ですが 一生懸命やっていればお客様の心に伝わるものができると思う」

芦屋 雁之助(あしや がんのすけ、1931年5月29日 - 2004年4月7日)は、日本の俳優、歌手。

漫才や芝居の舞台に立っていたが、1954年、「OSミュージックホールに入り、座付き作者雁之助が花登筺 のコントを演じることになり、弟の小雁とともに喜劇役者となる。

1959年花登の「劇団・笑いの王国」に参加し、「人気の大村崑、実力の雁之助」といわれる2枚看板の一人になった。毎日放送「番頭はんと丁稚どん」で人気を集めた。大村崑と芦屋雁之助は1931年の同年生まれであるが、常に2番手であった雁之助は、不満を持つ。両雄並び立たず、雁之助は1964年に劇団「喜劇座」を旗あげし、座付き作家の藤本義一の「裸の大将放浪記」に出演し人気をはくす。

1969年に劇団を解散し東京へ進出。1979年の森光子主演「おもろい女」で芸術祭大賞。1980年「裸の大将放浪記」(関西テレビ・フジテレビ)が当たり役となった。

雁之助は歌手としても活躍している。1984年には「娘が嫁ぐ日がこなけりゃいいと 男親なら誰でも思う」から始まる「娘よ」は150万枚の大ヒットとなり、紅白歌合戦に出場する。日本レコード大賞得特別賞を受賞している。

放浪の画家であった日本のゴッホ・山下清を描いた「裸の大将放浪記」は、1957年からの17年間で82作を数えた。坊主頭にランニングシャツ、短パン姿がトレードマークになった。この作品で「男はつらいよ」の寅次郎と同じく雁之助の山下清は国民的キャラクターとなった。マドンナには若手女優が多く起用され、出演する事は女優の登竜門とされたのも同じだ。渥美清「男はつらよ」は1969年から26年間で48作品ある。この二つの作品は、私もテレビで十分に楽しんでいる。

雁之助の姿が自分に瓜二つだったため、山下清自身は「舞台にもぼく、客席にもぼく」と言ったというエピソードもある。「おにぎりがもらえるまで歩くから、もらえないってことはないんだな」という山下清が語るセリフも実感のこもった名言だ。

雁之助の生涯を概観しながら、「代表作」について考えた。人は何によって記憶されるか。何によって記憶されたいか。それは代表作によって、であろう。すぐれた仕事を膨大な量こなした人でも、代表作がなければなかなか記憶には残らない。

「一生懸命やっていればお客様の心に伝わるものができると思う」という雁之助の代表作は、「裸の大将放浪記」だ。このライフワークとなった作品は、1980年から17年という長い年月かけて、視聴者の心に届いたのである。

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