見出し画像

「名言との対話」11月3日。福沢捨次郎「まず獣身を成して、その後に人心を養う」

福澤 捨次郎(ふくざわ すてじろう、慶応元年9月21日(1865年11月9日[1]) - 大正15年(1926年)11月3日)は、日本ジャーナリスト

福沢諭吉の次男。2歳年上の長男・一太郎と一緒に予備門に入るがともに中退し、慶應義塾に移り、1883年にアメリカに留学。土木工学を学び1888年に帰国。山陽鉄道を経て、1896年の31歳で時事新報に社長として入社。以後、没する1926年まで約30年間その地位にあり、堂々たる新聞に育て上げた。

福沢諭吉の主たる事業は、「学校と新聞」であった。慶応義塾一太郎が社頭として受け継いで、諭吉精神の集大成である「修身要領」の編纂にもあたっている。そして時事新報は捨次郎が引き継いだ。

捨次郎は凡庸な二世経営者ではなかった。三田評論の「福沢諭吉をめぐる人々」によれば、時事新報は、捨次郎のアメリカ時代に身に着けた知見と彼自身の企画力で、ヒットを飛ばしていった。捨次郎はロイター通信との独占契約、新聞界初の美人コンクール、女性速記者の登用、「年鑑」の発行などを推進し、新聞界に多くの先例をつくった。

坂倉卓造「五十人の新聞人」によれば、事件報道など社会面の充実、案内広告による増収、社会風刺などの新聞漫画の採用、スポーツ記事の掲載など、多くの先駆けを行っている。捨次郎の死後、時事新報は競争力を失い、1955年に産経新聞と合同にいたり、終刊となっている。

福沢諭吉は、五男四女を設けている。諭吉の教育方針は「身体壮健精神活発」と「先成獣身而後養人心」であった。まず獣のような強健な体をつくり、その後に人としての心を鍛える、であり、子どもたちにその通りの教育をしている。5歳までは思う存分暴れさせて、一太郎8歳、捨次郎6歳で初めて「ひびのをしえ」を与えている。

福沢捨次郎は、優れたスポーツマンであったように「獣身」を持っていた。そして精神の活発な「人心」をもって父・諭吉の新聞事業を発展させたといえるだろう。捨次郎の言葉はみつからなかったので、「先成獣身而後養人心」(まず獣身を成して、その後に人心を養う)という福沢諭吉の言葉を採ることにした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?