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「名言との対話」1月6日。セオドア・ルーズベルト「もっと軽い荷物にして欲しい、と祈ってはならない。もっと強い背中にして欲しい、と祈りなさい」

セオドア ・ルーズベルト英語: Theodore Roosevelt、[ˈθiːəˌdɔːɚ ˈɹoʊzəˌvɛlt][3][4][5]1858年10月27日 - 1919年1月6日)は、アメリカ合衆国軍人政治家、第25代副大統領および

オランダ系アメリカ人。ハーバード大学卒業1年後の1881年ニューヨーク州議会議員(最年少)。1882年『The Naval War』を刊行し歴史家となる。市公安委員長として市警察の腐敗と闘う。海軍次官米西戦争で義勇騎兵隊「ラフ・ライダー」を率いて奮戦(死後に名誉勲章を受章)。

戦後、ニューヨーク州知事。副大統領。1901年マッキンリー大統領の暗殺で42歳で第26代大統領に就任。巨大資本を統制し、国民の福祉のために連邦政府を強化して政策を実行した。パナマ運河の着工も実施した。

「Speak softly and carry a big stick」がソローガンだった。いわゆる「棍棒外交」である。日露戦争の停戦のポーツマスの仲介で1906年ノーベル平和賞を受賞。後に日本を危険な存在と考えるようになった。

1901年から8年間の大統領生活を終えた後にも、1912年、1916年の大統領選への関与や出馬も行っている。

セオドア・ルーズベルトは探検家でもあった。大統領を退いた後、1909年にアフリカでサファリを行い、ケニアコンゴスーダンを探検。1914年にはアマゾン川流域を探検している。

政治家、軍人、作家、狩猟家、探検家、自然主義者という精力的な生涯を送った。亡くなった時、息子の一人は「The old lion is dead」(年老いたライオンは死んだ)と伝えた。航空母艦の一つは「セオドア・ルーズベルト」と命名されている。

セオドア・ルーズベルトは以下言葉がいい。

「目を星に向け、足を地につけよ」「私は平均的な人間にすぎない。ただ、平均的な人間より一生懸命働いているだけだ」「人生の一番のご褒美とは、為す価値のある仕事を一生懸命為す機会が与えられることに違いない」「賞賛に値するのは、実際に行動した人物であり、汗と血でまみれ、勇敢に戦い、何度も間違いを犯して成功にまで手が届かなかった人物であり、熱意をもって身を捧げ、有意義な目標に向かって全精力を使い、たとえ失敗したとはいえ果敢に挑戦した人物である。その人物は、勝利も敗北も知らない臆病者たちとは一線を画している。」

セオドア・ルーズベルトは日本とも縁が深い。忠臣蔵の英語訳本(『47ローニン』)を愛読していたとの逸話がある。アメリカ人初の柔道茶帯取得者でもある。

セオドア・ルーズベベルトは日露戦争時の大統領として。日本びいきでもあり、ポーツマス条約の斡旋者だった。この功績で、アメリカ人大統領初のノーベル平和賞を受賞している。

日露戦争に勝利し、連合艦隊を解散し、平時編成に戻すことになった。その際に連合艦隊解散の辞として東郷平八郎が読み上げた訓示に感銘を受け、英訳文を全米の海軍将兵に配布した。バルチック艦隊を破った名参謀秋山真之の起草した歴史的名文であり、以下全文を掲げる。

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20数ヶ月にわたった戦争も、今や過去のこととなり、わが連合艦隊は、今やその任務を果して、ここに解散することとなった。しかし艦隊は解散しても、わが海軍軍人の務めや責任が、軽減するということはない。この戦役で収めた成果を、永遠に保ち、さらに一層国運をさかんにするには、平時戦時の別なく、まずもって外からの守りに対し、重要な役割を持つ海軍が、常に万全の海上戦力を保持し、ひとたび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる備えが必要である。
ところで、その戦力であるが、戦力なるものはただ艦船兵器等有形の物や数によってだけ、定まるのではなく、これを活用する能力すなわち無形の実力にも実在する。百発百中の砲は、一門よく百発一中、いうなれば百発打っても一発しか当らないような砲なら百門と対抗することができるのであって、この理に気づくなら、われわれ軍人は無形の実力の充実、即ち訓練に主点を置かなければならない。先般わが海軍が勝利を得たのは、もちろん天皇陛下の霊徳によるとはいえ、一面また将兵の平素の練磨によるものであって、それがあのような事例をもって、将来を推測するならば、たとえ戦争は終ったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。
考えるに軍人の一生は戦いの連続であって、その責務は平時であれ、戦時であれ、その時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。事が起これば、戦力を発揮するし、事がないときは、戦力の蓄積につとめ、ひたすらその本分を尽くすことにある。過去一年半かの風波と戦い、寒暑に直面し、しばしば強敵とまみえて生死の間に出入りしたことは、もちろんたいへんなことではあったが、考えてみると、これもまた、長期の一大演習であって、これに参加し、多くの知識を啓発することができたのは、軍人として、この上もない幸せであったというべきで、戦争の苦労も些細なものにしてくれるといえよう。もし軍人が太平に安心して、目前の安楽を追うならば、兵備の外見がいかに立派であっても、それはあたかも、砂上の楼閣のようなものでしかなく、ひとたび暴風にあえば、たちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきことである。
むかし神功皇后三韓を征服されて後、韓国は400余年間、わが支配の下にあったけれども、ひとたび海軍がすたれると、たちまちこれを失い、また近世に至っては、徳川幕府が太平になれ、兵備をおこたると、数隻の米艦の扱いにも国中が苦しみ、またロシアの軍艦が千島樺太をねらっても、これに立ち向うことができなかった。目を転じて西洋史を見ると、19世紀の初期ナイル及びトラファルガー等に勝った英国海軍は、祖国をゆるぎない安泰なものとしたばかりでなく、それ以後、後進が相次いで、よくその武力を維持し、世運の進歩におくれなかったから、今日に至るまで永く国益を守り、国威を伸張することができた。
考えるに、このような古今東西の教訓は、政治のあり方にもよるけれども、そもそもは軍人が平安な時にあっても、戦いを忘れないで、備えを固くしているか、どうかにかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。
われわれ戦後の軍人は、深くこれらの実例、教訓を省察し、これまでの練磨の上に、戦役の体験を加え、さらに将来の進歩を図って、時勢の発展におくれないように努めなければならない。
そして常に聖諭を泰戴して、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、時節の到来を待つならば、おそらく、永遠に国家を護るという重大な責務を果たすことが出来るであろう。
神は平素ひたすら鍛錬につとめ、戦う前に既に戦勝を約束された者に、勝利の栄冠を授けると共に、一勝に満足し、太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取上げてしまうであろう。昔のことわざにも「勝って兜の緒を締めよ」とある。
        1905年12月21日 連合艦隊司令長官 東郷平八郎

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猿谷要アメリカ大統領物語』(新書館)を読んだ。アメリカ大統領は国家元首、行政府の長、陸海空軍の総司令官、政党党首、そして道徳を体現するリーダーであるから、大変な重責だ。この本は歴代の40数人の大統領のそれぞれの紹介をしながら、アメリカ史を概観できる構成になっている。それぞれの大統領が登場した背景、業績、私生活などが手際よくまとめられている。大統領のランクづけが興味深い。学者とジャーナリストが数十名参加してランクが5段階で決まる。Aランクは11人いる。1位はリンカーン。2位はワシントン。3位はFDRルーズベルト。4位はセオドア・ルーズベルト。5位はアイゼンハワー。6位はトルーマン。7位はジェファーソン。8位はケネディ。9位はレーガン。10位はジョンソン。11位はウィルソン。そしてオバマは12位でBランクのトップと高い評価となっている。

「何かを頼まれたら、困難の度合いを確かめてできるかできないかを値踏みせずに、「できます。やりましょう」と答えて、どうしたらできるかを考えよ。それが一生懸命に働くことだ」、この言葉もいいが、今回は「もっと軽い荷物にして欲しい、と祈ってはならない。もっと強い背中にして欲しい、と祈りなさい」を採りたい。大きく困難な仕事、高い役職、そういうものにひるんではならない。考えて見れば、レベルは違うが、私もそういうオファーがあったとき、いつも笑いながら「やりましょう」と答えてきた感じもする。

セオドア・ルーズベルトの生涯を追うと、この精神で60歳の人生を盛大に全うしたという感じを持つ。歴代大統領のトップランクという評価に納得する。日本の近代史において、この人は特筆すべき人である。

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