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「名言との対話」 6月13日。木暮実千代「私は人様に見られる商売よ。いついかなる場合にも、辛辣な人の目を意識して、いかに自分の魅力を引き出すかに心血を注いでいるんですもの」

木暮 実千代(こぐれ みちよ、1918年1月31日 - 1990年6月13日)は、女優。

梅光女学院卒。日大芸術学科在学中の1938年松竹大船に入社し、「愛染かつら」でデビュー。妖婦型の美女として、「木石」の好演などで人気スターの地位につく。夫の仕事の関係で満州に住む。終戦後に苦労して帰国。女優として復帰し、「酔いどれ天使」「青い山脈」「執行猶予」「雪夫人絵図」「帰郷」「自由学校」「源氏物語」「千羽鶴」「祇園囃子」「赤線地帯」など350本以上の映画に出演。のち、テレビや舞台でも活躍する。

CM出演した女優第一号でもある。「マダム・ジュジュ」や「サンヨー夫人」のCMは有名だ。経営の才にも富み、テレビ番組の企画・製作会社や芸能タレント養成会社などを経営した。

ボランティア活動にも熱心で、1957年に群馬県にある「鐘の鳴る丘少年の家」の後援会長に就任した。1973年からは法務大臣認定の保護司になっているから、その志は本物だった。1980年には日本中国留学生研修生援護協会常任理事になり、中国留学生を自宅に寄宿させていた。

終戦直後、有楽町のガード下で靴磨きをしていた戦災孤児に「寒いでしょう。さあ、これでなにか温かいものでもお食べなさい」と100円札を2枚渡した。アメリカに渡り苦学し大学を出て、高校の教師となった少年は、余命いくばくもない木暮に会うためにアメリカから帰国し、再会を果たしたというエピソードもある。

ライバルだった高峰三枝子の息子が1977年覚醒剤容疑で検挙されたことがあった。四面楚歌の高峰親子に暖かい手を差し伸べ、保護司として息子を監督下に置き、立ち直らせている。

社会福祉運動の資金集めのために 「木暮劇団」を率いて年3回地方公演を行っている。木暮実千代の通夜の日は、保護司として面倒をみた人たちの「先生!」と泣き叫ぶ声が続いた。出棺まで泣き続けた人や「ぼくのお母さん!」と叫び泣く中国人留学生たちも大勢いた。

CMで縁のあった三洋電機の工場を訪問したとき、後藤清一副社長は部下に写真を撮らせた。綺麗で活気がある表情、歩く姿、横を向く姿、腰掛けた姿、どれもこれも一つの芸術であった。一方、社長、副社長の写真は、見苦しかった。部下に「もっとほかに撮りようがないのか」と叱ったときに発した言葉が、木暮の「人様に見られる商売よ。、、」だった。経営者は見られているという修練を積んではいない。職業を通じての修練の差であると「修練」という言葉を使った。修練とは心身を鍛えることである。女優という職業に心血を注いでいるとの心意気である。一つの職業を究めることは、修練を積むことだという思想の表明だ。映画やテレビでよく見かけた記憶はあるが、映画やテレビで活躍する女優という職業を超えて、社会問題の解決に向けて地道で継続的な活動を続けた木暮実千代という人物の生涯に感銘をうけた。

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