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「名言との対話」12月7日。有馬朗人「師に近く歳になりけり桐一葉」

有馬 朗人(、1930年9月13日 - 2020年12月7日)は、日本の物理学者、政治家、俳人。

東京大学教授、財団法人日本科学技術振興財団会長、科学技術館館長、武蔵学園学園長、公立大学法人静岡文化芸術大学理事長(初代)。文化勲章受章者。国立大学協会会長(第14代)、東京大学総長(第24代)、理化学研究所理事長(第7代)、参議院議員、文部大臣(第125代)、科学技術庁長官(第58代)などを歴任した。勲等は旭日大綬章。

有馬朗人先生が本日(7日)午前に死去したというニュースが飛びこんできた。研究者( 物理学)としてノーベル賞級の業績をなし、教育者として大学改革・科学技術の進展に貢献し、俳人としても旺盛な創作活動を行った稀有の人物だ。

東大総長選では、もう一人の候補(本間長世)と同票数となり、くじ引きで当選したという幸運の持ち主である。はたからは、あらゆる栄誉を受けたと見えるが、本人はそうでもないらしい。「 行政や政治などの、物理学と無縁のことをやり、物理学に専念しなかったことを後悔している。後悔の理由はノーベル賞をもらえていないことであるという(2005年10月24日(月)日経朝刊内コラム「私の苦笑い」)。「物理学者としてノーベル賞を受賞してこそ認められるが、研究以外のいろいろなことをやり学問を究められなかった」。政治や行政に携わったことは「人生の痛恨事」だったと語っている。

橋本龍太郎首相に請われ参議院議員になり、小渕内閣の文相としてゆとり教育を推進した。その後科学技術庁長官。としてナトリウム漏れ事故で長期停止した「もんじゅ」の運転再開に取り組んだ。臨界事故の対応にもあたった。3・11の福島第一原発の事故にあたっては、再稼働を訴えた。原子力技術後進国になることを懸念していた。「核燃料サイクル政策」が欠かせないと、高速増殖炉「もんじゅ」の早期運転が必要だと、死の数日前までインタビューにかくしゃくとしてこたえていた。

国立大学法人化の推進役だった。運営費交付金は減らさない約束だったとし、「国立大学法人化は失敗だった」と2020年5月の日経ビジネス誌で語っている。また 国立大学法人化によって若手研究者を雇用できなくなったことについて、「私には責任があります。あと何年生きるか分からないけれど、世界並みのレベルにするまで、徹底的にやりたいです」と反省の弁を語る。

俳人としても高浜虚子に師とした工学博士・山口青邨に師事した大家であった。1990年から句誌「天為」を主宰。『母国』、『知名』(夏草賞)、『天為』(第27回俳人協会賞)、『耳順』、『立志』、『不稀』(第7回加藤郁乎賞)、『分光』(第3回詩歌句大賞)、『鵬翼』、『流轉』(第28回詩歌文学館賞)、2017年8月 『黙示』(第59回毎日芸術賞)(第52回蛇笏賞)。

「ホトトギスの俳句は写生を重んじた。ときに平板に見えることにあきたらないこともなくはなかったが、ひたすら真実を美を求めて、観察と描写を怠らなかった。この方法は科学と全く同じだった。複雑なものを単純化して、一つの法則を作ることが科学者のすることであった。一木一草の写生の尊さと面白さを知った。しかし俳句は科学ではない。詩であるかぎり、つまりは主観も客観もどこかで重なって渾然と一つに融けてしまうべきのものであろう。客観写生はデッサン、骨法であり、そのうえに色を塗ったり盛ったり、色彩明暗、デフオルメなど主観によって完成されたものであろう。」(自選自解山口青邨句集) 。なるほど、写生とは科学者の眼で観察することであったか。

「異文化に属する人々と交流を深め、異風土に親しむことによって、普遍的な人間としての共感が生まれてきた。また自分の国への愛着も深まってきた。そして国の内外を問わず自由に俳句を作れるようになってきた、とひそかに思っている」。「1964年と2020年の東京五輪をまたぐJALハイク・プロジェクト50年超の軌跡」である柴生田俊一『子ども地球歳時記』(日本地域社会研究所)に詳しいが、この分野でもJAL時代には有馬先生にはお世話になった。

あるテレビ番組で、講義の準備を熱心にやってきたが、学生がわかるかどうかを失念していたと発言しているのを聞いて驚いたことを思い出した。正直な人だったのだろう。この人にして悔恨と反省の塊であるとは、人生はわからない。

有馬先生の訃報を聞いて、2020年12月の天為俳句会での句を見つけた。「かなかなや淋しと言ひし人いづこ」「師に近く歳になりけり桐一葉」「爽やかに回り舞台の一変す」「無月なり世のほころびかくさんと」。突然の死を予見しての辞世の句のようだ。師の山口青邨は96歳の長寿であったが、この弟子は90歳で卒した。

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