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「名言との対話」 8月14日。石森延男「わたしは和人のひとりとして、少しでもその足跡を探りたいと思った」

石森 延男(いしもり のぶお、1897年6月16日 - 1987年8月14日)は、日本の児童文学者、国語教育学者、教科書編集者。

北海道札幌市に、歌人で「われらが愛する北海道」の作詞者でもある石森和男の長男として生まれる。

東京高等師範学校卒。愛知県や香川県で中学校教師ののち、1926年から大連の南満洲教科書編集部に勤務し、『国語読本』を編集。満州唱歌の制作にも深く関わった。1939年、文部省図書監修官となり、国民学校教科書を編纂、戦後、最後の国定教科書を編纂する。昭和女子大学教授をしながら国語教科書編纂を続けた。

1926年頃から児童文学の創作をし、日中戦争当時の満州国を舞台にした少年小説『咲出す少年群』(1939)で第3回新潮文学賞、北海道のアイヌを主人公とした『コタンの口笛』(1957)で未明文学賞、産経児童出版文化賞、『バンのみやげ話』(1962)で第1回野間児童文芸賞受賞。 1981年には児童文学季刊雑誌『飛ぶ教室』の編集委員となり、同誌を創刊。日本児童文学学会初代会長。主要著作をまとめた『石森延男児童文学全集』全15巻がある。

今回、石森延男『梨の花ーーマンロー先生とアイヌたち』(文芸春秋)を読んだ。

マンロー先生はスコットランドのエジンバラ生まれ。30歳で横浜に上陸し、日露戦争の最中に日本に帰化した。アイヌに民俗学的興味をそそられ、北海道の二風谷(ニブダニ)に住み、医者としてひたすらアイヌの流行病を治療し、生活改善に努力し、アイヌの教養を高めようとした人物で、世界的な考古学者、民俗学者である。ニブタニ・コタンの萱野茂から「マンロー」の名前を聞いた。萱野茂は1926年生まれのアイヌ文化」研究者で、二風谷アイヌ資料館を創設し、館長を務めた。アイヌ初の国会議員(1994年から1998年まで参議院議員)になり、アイヌ文化振興法を成立させた人だ。昨年北海道に行ったとき、この資料館を訪ねようとしたが、果たせなかった。

「和人」のひとりとしてマンロー先生の足跡を探りたいと思てから3年かかって乏しい資料や関係者の取材でできあがった評伝小説である「梨の花」を書いた。マンロー先生のアイヌ人との交流が描かれている。マンローには『魂の存在』『先史時代の日本』『日本の貨幣』『アイヌ』などの著書がある。石森の書いた「梨の花」が上梓されていなければ、この人の存在は忘れ去られていたに違いない。伝記、評伝には人物発掘という意義もある。歴史空間の中で、偉かった人物の香りを嗅ぐことができる。そしてその声はエコーとなって響き続ける。二風谷アイヌ資料館や、最近できた国立アイヌ民族博物館ウポポイ(民族共生象徴空間)を訪問したい。

石森は『飛ぶ教室』という児童文学雑誌を創刊している。最近NHKラジオで作家の高橋源一郎がこのタイトルで語りを始めた。もともとは、1933年に発表したエーリッヒ・ケストナーの児童文学小説のタイトルだった。高橋源一郎は石森延男の志、もっといえばケストナーの志を継ごうとしてのだろうか。


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