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「名言との対話」2月22日。木滑良久「鍛えられた研ぎすまされた直感が全て」

木滑 良久(きなめり よしひさ、1930年2月22日 - )は日本の編集者。

東京出身。15歳で敗戦に遭遇。進駐軍を通じて米国文化に接し、強烈な憧れを抱く。1954年3月、立教大学文学部史学科卒業。

学生時代から出入りしていた平凡出版(現在のマガジンハウス)に1955年3月に入社し、1965年から1980年まで『週刊平凡』『平凡パンチ』『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』の各編集長を歴任した。1980年、取締役に就任。1982年、『Olive』編集長を兼任。1984年、取締役編集担当副社長。1988年には『Hanako』を創刊しブームを作る。同年、代表取締役社長に就任。1996年12月、代表取締役会長。1998年12月から最高顧問。

新しいライフスタイルを生みだした雑誌づくりの名編集者だ。10歳ほど年下の石川次郎との共同作業で「BRUTUS」「Tarzan」「GULLIVER」などを次々に創刊していく。

当時は講談社の内田勝軍団とマガジンハウスの木滑軍団が有名だった。私はJALの雑誌担当の広報マンとして30代後半の2年間どっぷりと両社とつきあった。取材に必要な航空チケットを提供し、対価としてパブリシティをもらうという仕事だ。『BRUTUS』『ターザン』『ホットドッグプレス』などが、私の主な担当だった編集者とは企画の段階でよく打ち合わせをし、夜の食事会も多かった。きなさんと呼ばれていた木滑さんや内田さんは偉すぎたが、ターザンの石川次郎、ホットドッグプレスの土屋編集長、その配下の編集者たちとは仕事をよくした。

講談社の「一枚の絵は一万字にまさる」という内田さん。ホットドッグプレス、デイズジャパン、土屋編集長、三五館。マガジンハウスの木滑さん。ポパイ、ブルータス、ターザン、石川次郎さん、、、など、橘川幸夫さんの回想記を読むと、以上の人たちや雑誌が登場する。私は同時期にこれらの雑誌に関与していたのだが、担当はわずか2年であり、私の私的関心は「知的生産の技術」であったから、ベクトルは少し違っていたようで橘川さんとはすれ違っていた。

『POPEYE』創刊40周年を記念した「『POPEYE』を創った男たち、8人の証言」という映像をユーチューブでみた。 椎根和(編集者)「1976年。ナイキのスニーカーなど新しいライフスタイルををみせていく。過去はふり返らない」。石川次郎(編集者)「若者のライフスタイルマガジン。学生、アルバイトたちが参加し、タイトルやコピーをつくった」。都築響一(ライター)「編集会議がなかった。自分で面白いものをみつけて提案するというやり方・アイデアマンには有利」。新谷?(アートディレクター)「デザイン美学ではなく、その人をどう表現するかに腐心した。だからアイデアは枯渇しない」。松山猛(作詞家・ライター)「分業ではなく、取材、ビジュアル、原稿と一貫して任されるから、つくりたいものをつくれるから面白いが責任も重かった」。当時の勢いがみえるような回想だ。

90歳になった初代編集長の木滑良久は「進駐軍の姿をみて戦争には絶対勝てないと思った。窓が開き、新しい音楽、映画などアメリカが見えてきた」。「ローラースケート、空気銃、自転車などで遊ぶ男の子の生活に関心を持った。ベトナム戦争が終わるころにはアメリカの健康的な生活スタイルが、日本に入ってくるだろうと石川次郎と話し合って、『POPEYE』を創刊した。3年もやっていると飽きてくる。飽きてちがうことをやっていく。また理論化しようとするとダメになる。統計は過去のものだ。未来はそういうものでは生まれない。雑誌作りは感性主体の作業だ」と良い雑誌作り真髄をを語っている。

雑誌の創刊者、初代編集長を長く続けたところにこの人の非凡さがあると思う。その秘訣は、「鍛えられた研ぎすまされた直感」を持ち続けることにあったようだ。

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